『図解コミュニケーション全集』第2巻「技術編」・「図解コミュニケーションの技術」の見本を入手しました。
B5判。660ページ(第1巻は557ページだから100ページほど多い)。市販は3月末から4月初めにかけてを予定。
クラウドファンディングで30人の方から62万円のご支援いただきました。定価は4800円(本体4364円+税10%)。推薦文は野田一夫先生にいただきました。
「図解革命」進行中!
野田一夫(多摩大学名誉学長)
梅棹忠夫先生が雑誌『図書』に「知的生産の技術について」と題する連載を始められた頃から、早くも50年以上の歳月が流れようとしています。読者からの予想外の反応に励まされた先生は、その後この連載記事の内容に綿密な補筆訂正を加えられた末に名著『知的生産の技術』(岩波新書、1969年)を出版され、日本の知識人の間に大きな衝撃を与えました。
知識を効率的に獲得し、保持し、利用する…方法の開発といったことなど、明治時代(いやそれ以前)から多くの日本の知識人では、まともに検討されたことすらなかったからです。先生のこのご本は、(全く皮肉なことに)大学を除く広い分野の知識人の間に絶大な影響を与え、考え方のみか実用の面でも豊かな実りをもたらしました。例えば、立てつづけにビジネス書部門のベストセラーの偉業を達成した久恒啓一君の「図で考える」発想と技術もまた、その起源を辿れば梅棹先生に行き着くのです。
場所を教えるには「地図」が、また事象の推移や比較を示すには「グラフ」が,言葉より遥かに有効な伝達の手段だということは誰でも知っています。しかし、学術書から小説にいたるまで、膨大な文章の内容を理解するには「図解」が一番得策であるということを知っている人はごく少数です。いや、知っていても、技術としてそれを身につけている人は目下のところまずいないといっていいでしょう。わが国を含めほとんどの国で,この技術を正規の授業で教えている学校がないからです。
このことに逸早く気づき、その技術を自ら開発しながら仲間を増やし、著作や講演を通じて地道に世間に訴えつづけてきたのが、久恒啓一君です。僕が知り合ったのは、同君がまだ日本航空の広報課長をしている時でした。同君の初期の著作を読んだ僕は直ちに、何とかして同君を(冗長でへたくそな文章の論文や著作が氾濫している)大学の世界に招こうと決意しました。宮城大学の創設に当り、「事業構想学部」という前代未聞の学部設置を計画した時点で、日本航空のトップに直接お話しし、僕の決意は遂に実現したのです。
結果は上々。その後の20年を超える年月をかけた膨大な著作や多数の講演によって、日本発の「図解革命」は今なお進行中です。この「図解コミュニケーション全集」が完成すれば、「図解革命」の経典となるでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
午前:大学で資料整理。
午後:新宿で日販の柴田さんとミーティング。
夕方:地研で「全集」2巻の見本を4冊入手。落合社長と新規企画の相談。
ーーーーーーーー
「名言との対話」2月26日。五社英雄「なめたらいかんぜよ!」
五社 英雄(ごしゃ ひでお、1929年2月26日 - 1992年8月30日)は、日本の映画監督、脚本家、演出家。
明治大学商学部を卒業し映画監督を目指すが叶わず、近い業界としてマスコミのニッポン放に入社。フジテレビへ移りTVドラマを演出し、数々の人気ドラマを手掛ける。その後『三匹の侍』『雲霧仁左衛門』『鬼龍院花子の生涯』『極道の妻たち』『吉原炎上』などアウトローを主人公とした作品を中心に名作を生み出し、映画界のヒットメーカーとして活躍する。1985年、「五社プロダクション」を設立。晩年は癌と闘いながら撮影活動を続け、『女殺油地獄』が遺作となった。
『五社英雄 極彩色のエンターテイナー 文藝別冊』(春日太一)では、関係者へのインタビュー42本が掲載されいて、五社の人柄と仕事ぶりが垣間見える。平幹二朗「『三匹の侍』のおかげで日本中に知られる俳優になりました」。安藤昇「五社さんは、表と裏の狭間で生きていた」。竹中直人「「アニキさんのまんまでよござんすよ」は一生の言葉です」。本木雅弘「私にとって五社組は「男として磨かれる場所」でした」。女優はどうか。かたせ梨乃「「頭で芝居したら絶対ダメだよ」それが五社学校初等科の卒業証書でした」。夏木マリ「一回ふっ切れると、女って強い」。名取裕子「監督は可愛らしい少年でした」。藤真利子「私、とり憑かれやすいんです」。
座右の銘は井伏鱒二の名訳「花の嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生さ」で墓石に刻まれている。 「憤怒の人生を、疾風迅雷の如く駈け抜けた鬼才」、「日本のドラマと映画を変えた鬼才」、「極彩色のエンターティナー」などと表現されている五社英雄の心意気をあらわす言葉である。そして再起をかけた渾身の作品であった「鬼龍院花子の生涯」(宮尾登美子原作)で、台本にはなかった「なめたらいかんぜよ」というドスのきいた啖呵を即興で夏目雅子に切らせて流行語となった。この作品では夏目雅子はブルーリボン賞の主演除女優賞をとり、宮尾も流行作家となっている。「なめたらいかんぜよ」、この台詞はアウトローの世界を描いた映画監督・五社英が立ち向かった仕事のエネルギーの源であったと理解しよう。