「与謝蕪村「ぎこちない」を芸術にした画家」展ーー「 二刀流」、「独学」、「遅咲き」、「ヘタウマ」。

ユニークな企画で話題の府中市美術館で開催中の「与謝蕪村「ぎこちない」を芸術にした画家」展。企画展をみてきました。

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18世紀に京で池大雅(蕪村「平安之一奇物、をしき事に候」)、伊藤若冲、丸山応挙(17歳年下。筆濯ぐ応挙が鉢に氷かな)らと絵の才能を競った画家であり、一方で芭蕉も流れをひく俳人としても傑出した、二刀流の人物だった。山水画、人物画、そして俳画まで傑作を残している。その背景として中国の古典や歴史にも深い造詣を持っていたインテリでもあった。

この企画展は蕪村の「ぎこちなさ」という面に焦点をあてて、力強さ、揺らめきに着目した珍しい展覧会だ。

享保元年(17176)大坂生まれ。20歳頃に江戸で俳諧の「夜半亭」に入門。絵は独学で描いていた。27歳、北関東に移り松尾芭蕉の「奥の細道」の足跡を訪ねる。36歳、京へ。39歳から郷里の丹後国与謝村で暮らす。「夏河を越すうれしさよ手に草履」。

42歳、京へのぼり、絵画や俳諧の世界で長い年月を過ごし、途中2年間讃岐で過ごし、天明3年(1783)68歳で亡くなった。この間、48歳では「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」と詠み、55歳で夜半亭二世として俳諧宗匠となり、生涯で2800余の句をつくった。また人気画家としても活躍している。遅咲きの画家である。絵画では教養と感性を備えた文人の絵画である文人画の系統である。また50代の中ごろからは俳画で「蕪村スタイル」と呼ばれる傑出した作品をかいている。蕪村は洛北の金福寺の「芭蕉案」を再考するなど、「蕉風」の復興にも尽力しており、62歳から3年かけて「奥の細道」をテーマとした作品を手がけている。

蕪村の絵画の特徴をこの企画展は、「ヘタウマ」というわざと稚拙に描く破壊的な面白さに着目しており、その観点からくどいくらいに説明している。

以下、俳画の記された俳句をあげる。

「又平に逢ふや御室の花さかり」「花すすきひと夜はなひけむさし坊」「居直りて孤雲に対すかはすかな」「うくひすや日あたる夜に来たはかり」「涼しさに麦を月夜の瓜兵衛哉」「なの花や月は東に日は西に」「春の海終日のたりのたりかな」「池と川とひとつになりぬ春の雨」「岩くらの狂女恋せよほととぎす」「古御所や虫の飛びつく金屏風」

蕪村の絵画のキーワードは、「 二刀流」、「独学」、「遅咲き」、「ヘタウマ」と記憶しよう。

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朝は立川。

夜は橘川、仁上、亀田らとZOOMミーティング。

BSテレビで、探検家アムンゼンの番組と、金星探査船あかつきの番組をみる。アムンゼンのスコットとの南極一番乗りの物語は小学生時代以来だ。二つの番組は局地探検と宇宙探検という探検の番組だった。

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「名言との対話」3月18日。宮川泰「その言葉を、もっときれいに、皆が感じてくれる様なメロディーを作らなければならない」

宮川 泰(みやがわ ひろし、1931年3月18日 - 2006年3月21日)は、日本作曲家編曲家ピアニストタレント。

北海道の留萌市生まれ。土木技術者だった父親の都合で転校をくり返した少年時代には、母親の影響で孤独感をオルガンで埋め合わせ、音楽で自らを表現する喜びに目覚めていく。はじめは絵描きを目指して京都の美術学校に進んだ。キャバレーでピアノ演奏のアルバイトをしている時、大阪学芸大学のピアノ科の教授に勧められ入学、本格的に音楽を勉強する。

中途退学しプロを目指して上京し、渡辺プロの「渡辺晋とシックスジョーズ」にピアニストとして加わる。ザ・ピーナッツと出会い、「ふりむかないで」「恋のバカンス」を作曲し次々と作曲しヒットさせた。作曲にとどまらず、アレンジャー、番組のテーマソング、CM、映画音楽、番組の音楽総指揮、リサイタルの監督など活動は多岐に及んだ。

ジャズの感覚を生かした軽妙ながらインパクトのある「宮川節」と称される音楽は、時間の短いTV番組のオープニングに重用され、「昼のプレゼント」「バラエティ笑百科」には、軽快なテンポとリズのオープニング曲を提供した。『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』、『宇宙戦艦ヤマト』、『ズームイン!!朝!』、『午後は○○おもいッきりテレビ』、『ズームイン!!SUPER』などテレビ音楽にも多数の作品を提供している。

生来の目立ちたがり屋で笑いが好きな性格から、積極的にテレビ番組に出演して人気を集めた。音楽の楽しさを多くの人に伝えた生涯だった。主旋律をかく作曲は700曲、楽器構成や譜面を制作する編曲(アレンジ)は1万曲以上だった。「銀色の道」「若いってすばらしい」「宇宙戦艦ヤマト」「JRA競馬のファンファーレ」など、日本の音楽史に残る多くの名曲を残す、日本ポップス界の開拓者である。

1963年に「恋のバカンス」で第5回日本レコード大賞編曲賞受賞。1964年にピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」で第6回日本レコード大賞作曲賞受賞。1969年伊東ゆかり「青空のゆくえ」で合歓ポピュラーフェスティバル'69作曲グランプリ受賞。1971年沢田研二「君をのせて」で合歓ポピュラーフェスティバル'71川上賞受賞。

「名匠宮川組」のメンバーらと共に全国で演奏会を行っており、大阪芸術大学音楽学科の教授も務めていた。自身の通夜では「ウナ・セラ・ディ東京」、告別式では『宇宙戦艦ヤマト』の曲が演奏された。この二つが代表作なのだろう。

NHK あの人に会いたい」をみると、インタビュー時にも笑いが絶えない。旺盛なサービス精神で、周りには笑顔が絶えなかった人だ。「 音楽はとにかく楽しまなくては。これは歌謡曲 これは民謡 これはクラシックと分けない・音楽はすべて楽しいものである」と語っていた。

作詞家の言葉がさらに生きるようにメロディーをつくるのが作曲だ。作曲家がつくったメロディーを他さまざまな楽器を用いて、より高いレベルの音楽にまでつくり込んでいくのが編曲(アレンジャー)である。優れた編曲家の存在なしには、名曲は生まれない。その先駆者であり、名人が宮川奏だった。