俯瞰と鳥瞰。

ものごとの全体を眺めることを俯瞰と言います。高いところから鳥の目で対象をでみるという意味で鳥瞰という言葉を使うこともあります。どちらも同じ意味ですが、大局的、広い視野という感じといえばわかっていただけるでしょうか。
山の上から地上の景色を眺めるとパノラマとして景色が展開することで感動することがありますが、仕事の場面ではなかなかそういう経験には遭遇しないのではないでしょうか。


見晴らしがよくない山路で、難路に足を取られながら、悪戦苦闘しているのが、私たちが職場で経験する姿でしょう。会社の全体像、抱えている問題や課題の全体像をパノラマのようにみることができたらいいと思いませんか。
私は2005年から全国の人物記念館を訪ねる旅をしてきました。またここ5年ほどは、日本のさまざまの分野で一流の仕事をした人物を対象に毎日その人の生涯と遺した名言をさがし、ブログやnoteに書きつけることをやっています。


この中で発見したことの一つは、彼らは俯瞰や鳥瞰という視点で仕事をしているということでした。以下、例をあげてみましょう。

 

政治家の田中角栄元首相は、「政治家として大切なことは、ものごとを鳥瞰的、俯瞰的にみることだ」と語っています。
ソフトバンク孫正義は、「自分は発案して全体を俯瞰する役割。いつもまず全体を考える」と語っています。
コンサルタント梅田望夫は「世の中を俯瞰して理解したい。関係性に興味がある。俯瞰してものを見て全体の構造をはっきりさせたいという志向がある人はこれからの時代は有利になる」と総合的視点を持つことの重要性を指摘しています。
東大総長をつとめた小宮山宏は、「知の構造」の重要性を語り、実際に大学で「学術俯瞰講義」を展開しました。
セコム創業者の飯田亮は、私が取材した時に、「東京を俯瞰する高層ビルの最上階」から東京全体を見ていると語ってくれました。
平凡社を創業した下中弥三郎は、「分野全体をわしづかみ」にするという鳥瞰思考によって百科事典事業を成功させました。

 

芸能の世界でも同じでした。
女優の樹木希林は、「俯瞰で見ることを覚え、どんな仕事でもこれができれば生き残れる」「俯瞰で観るクセがついているので、わりと思い違いはないです」と述懐していました。
能楽師野村萬斎は、「狂言を俯瞰してみるために、、他のジャンルに挑戦している」と芸能の世界とそれ以外の世界についても挑戦することにしています。

絵描きたちはどうでしょうか。
鳥瞰図絵師を名乗った「大正の広重」こと吉田初三郎の画法は、一番多く「構図に時間を割く」とし、中心の周辺は湾曲させた独特の鳥瞰図絵で人気を博しました。
現代の大和絵画家の山口晃は、「超絶的な鳥瞰図法」で、中世、近世、現代という広大な時間と空間を配置した大いなる鳥瞰図を描いています。
イラストレーターの真鍋博は、鳥瞰的視点で「絵地図から国家計画まで」ジャンルを軽々と越えていきました。複眼、データ、数字、記号を用いると結論をひきだしてしまうとし、虫の目もさることながら、全体、昨日今日より明日を見る鳥瞰的視点を大事にしました。。
不染鉄はマクロの全体構造にミクロの細部を組み合わせる画法でした。代表作の「山海図絵(伊豆の追憶)」では富士山、日本海、太平洋を描きながら、伊豆近海で泳ぐ魚も描いているなど、俯瞰と接近の相まった独特の視点、マクロ視点とミクロ視点の混淆の絵を残しています。
画家の横尾忠則は、「超越者の視点」を得たいといっています。そして「たまに寝込むと、世の中を俯瞰して見ることができる」とtwitterで発信しているのです。
安野光雅は俯瞰的な風景画を描き人気がありましたが、顕微鏡でようやくわかる細部にイタズラ心がありました。
写真家も同様です。白川義員は「〇〇鳥瞰」というタイトルの写真が多い人です。「天地創造」という最後の写真集は神の目も感じる出来栄えです。

 

学者たちは」どうか。
心理学者の宮城音弥は、「心理学の鳥瞰図」を意識した傑作を上梓していいます。
考現学者の今和次郎は、透視図と俯瞰図という手法を使って現代を描くという優れた仕事をしました。
歴史学者の磯田直史は、「司馬遼郎で学ぶ日本史」という司馬の全作品を鳥瞰的に論じた納得感の高い本を書いています。。
文芸評論家の加藤典洋の「戦後入門」は、高い山から100年前の1914年の第一次大戦から鳥瞰した名著です。

 

詩も同様です。

作詞家の阿久悠の「日記力」を読むと、時代、変化、アンテナ、数字、観察、名前、メモ、短歌などを一日一ページの日記を毎日書き続けて、時代を俯瞰しながら優れた詩を書きつづけました。

詩人の谷川俊太郎は、「詩というのは俯瞰して、上からいっぺんに「今」を見ようとする」と詩の本質を説明しています。そして、全世界を1枚の図にあらわす「曼荼羅のすみっこみたいな、それが詩じゃないか」といいます


以上にみるように、ジャンルにかかわらず、優れた仕事師たちは、「鳥瞰」「俯瞰」という視点を持っているという共通項があるようです。

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「名言との対話」3月27日。篠田桃紅「自分はゲテモノですが、まがいものではないつもり」

篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲1913年3月28日 - 2021年3月1日)は、日本美術家版画家エッセイスト。107歳で亡くなったセンテナリアン。

中国・大連生まれ。5歳の頃から父に書の手ほどきを受けて墨と筆に触れ、以後独学で書を極める。戦後、文字を解体し、墨で抽象を描き始める。

1956年単身渡米、ニューヨークを拠点に、ボストン、シカゴ、パリなどで個展を開催し、欧米のアートシーンを牽引。1966年来日したザ・ビートルズは宿泊ホテルに飾られていた桃紅作品に感銘を受け、同じ筆を買い求めたという。

2005年「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれる。建築に関わる仕事や東京・増上寺大本堂の襖絵などの大作、装丁、題字、ベストセラーとなった著書など、活動は多岐にわたり、作品は国内外に多数収蔵されている。

100歳過ぎてからの著作が多い。『桃紅百年』『百歳の力』『一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い』『一〇三歳、ひとりで生きる作法 老いたら老いたで、まんざらでもない』『人生は一本の線』『一〇五歳、死ねないのも困るのよ』『桃紅一〇五歳 好きなものと生きる』。

『百歳の力』集英社新書、2014年6月を読んだ。名言の宝庫だった。

プロとしての心構えを教えてもらおう。

  •  高村光太郎の「僕の前に道はない」という詩をいつも心に思い浮かべていた。自分には道というほどのものはないが、作品がある。
  • 作るということは、続けるということです。道と同じ、ここで終わるということがない。道は山と違って延々と続いている。
  • プロというのは、どんなときでもそれをやり抜いてびくともしないでやっているものです。それが一流の仕事人。甘えたり、引きずっているようではだめです。

次に、墨をつかった抽象画の世界を教えてもらおう。

  • 自分の好きな歌を自分流で書いた。根無し草と酷評されたが、根があったら才気煥発になれないと思った。楷書の一部をとてカタカナにし、漢字のくずし字をとってひらがなをつくった。
  • 抽象画は想像する芸術。具象は見てわかる、理解するもの。抽象は理解するものではなく感じるもの。想像力を誘いだす。
  • 墨はいつも裏切ります。人生を芸術的に表しているのが、墨の芸術です。手なずけられない。墨には幅がある。墨は粒子が細かくて軽いから水にあたるとどういう動きになるか予測がつかない。墨は火でつくられて、水で生きる。富士山と同じ。墨の線は私の心のあちです。私が消えても作品はこの世に残る。つくったものが、私という人の「あと」です。一本の線一本の線が一期一会です。独創性を得るためには、考え方や生き方を自由にする。自由な気持ちを持つ。
  • 日本の文化は老いの芸術が多い。邦楽、落語、日本舞踊、歌舞伎、能。花時が短くない。自分はゲテモノですが、まがいものではないつもり。

次に、百寿について語ってもらおう。

  • 「こんなに長く生きるとは思わなかったから、この身の処し方は、参考にする人がいなくて戸惑います。百歳以上生きて仕事を続けている人は、ほんとうに少ない」「人生というものをトシで決めたことはないです」「長生きの秘訣はトシのことを考えないこと。忘れているんですよ」「いつ死ぬかなんていう不安を持つと、かえって体に悪いんじゃないかしら」「自分というものを表現する場を持っていることは、精神衛生上、非常にいいのかもしれない」。
  • 祖父は頼山陽の三男の弟子で頼治郎と命名してもらった。明治元年生まれの父は夏目漱石と同い年だった。桃紅が生まれたのは大正モダンの大正初期。それから107年という計算になる。山中湖に家を持った。1707年の富士山の宝永大噴火のあとに生えたカラマツの林は、北斎の浮世絵では緑色の点々だった。山中湖に家を建てたときは自分の背より少し高いくらいだった。今では見上げるような高さになった。富士山との付き合いも長い。この2つのエピソードは、100年以上生きることの凄みを感じさせる。

 この本には 「自由」という言葉が何度もでてくる。まるで口ぐせのようだ。生い立ち。美しいと感ずる感覚は生い立ちにある、母の袂をみて美しいと感じた。出会い。北村透谷の未亡人のミナ先生、疎開先の女医の先生、尊敬する北斎などが出会いだ。43歳でのアメリカ行きの機会を得た出来事は運がよかった。珍しかったから水墨は有利だった。そして価値観は「自由」だ。「私は自由です。自らに因って生きていますから」「結婚してよその家に依って生きることが恐かった。そのなかに入れば、自由はない」。だから生涯独身だった。「性格が一切です」と断言するようにそのとおりの生涯だった。

作品をつくることだけ。描けなくなったら、終わる。作品をつくりたいので生きています。百歳を過ぎて初めて描けたというものができればいちばんありがたい。人間としてやることはもう全部やっちゃったみたい。

篠田桃紅は2021年3月1日に107歳で亡くなった。関市立篠田桃紅美術空間岐阜県関市)、篠田桃紅作品館(新潟県新潟市)など、名前を冠した美術館もすでにある。2021年4月から横浜のそごう美術館で、「篠田桃紅展 とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」が開かれるので行くつもりだ。篠田桃紅の作品と生き方をみる機会としたい。

 

百歳の力 (集英社新書)

百歳の力 (集英社新書)

  • 作者:篠田 桃紅
  • 発売日: 2014/06/17
  • メディア: 新書