和田秀樹『六十代と七十代 心と体の整え方』(バジリコ)ーー「勇気と癒しの書」

和田秀樹『六十代と七十代 心と体の整え方』(バジリコ)を読了。

読む必要があって精読しました。精神科医にして高年学のオーソリティの「自信作」であり、本人曰く高年世代のための「勇気と癒しの書」です。

サブタイトルは「良く生きるために読む高年世代の生活学」で、オビには「読むと生きる意欲が湧いてくる本!」と紹介しています。

 2020年6月初版第1刷発行で、2021年2月に第7刷となっており、コロナ禍で快走しているようです。

六十代と七十代 心と体の整え方

六十代と七十代 心と体の整え方

  • 作者:和田秀樹
  • 発売日: 2020/07/06
  • メディア: 単行本
 

 著者の和田秀樹は、伝統的価値観とは何かを思索する保守主義者を自認し、日本政府が抱える膨大な財政赤字は政府の経済失政によるものであるとし、政治家の能力と倫理を問題視している。

専門家としての「心と体の整え方」を多くの事実の解説と、60代・70代へ向けて的確なアドバイスが満載だ。以下参考になったところをピックアップしえみた。

  • 人は心から老化する。前頭葉
  • ネンネンコロリ(NNK)とピンピンコロリ(PPK)
  • もっと「肉を」。もっと「光を」。
  • 朝は和食。昼は肉とサラダ。夜は軽め。赤ワイン。ブラックチョコ。
  • ややポチャ体型が理想。
  • 鎌田式ストレッチで貯筋。かかと落とし(10回3セット)とスクワット(10回3セット)
  • 感情の老化を防ぐこと。生涯現役で。レーシックとインプラントを。医者は薬を飲まない。副作用を聞け。かかりつけ薬局を大事に。好色のすすめ。免疫力の維持を。
  • 金は使い切る。パソコンは万能ツール、SNSで脳のアンチエイジングを。

コロナへの対処については、最後に以下を提唱している。ウイルスと共存しながら被害を最小限に抑える。部屋に引きこもらず毎日一度は外で陽の光を浴びる。食事をしっかりとる。免疫力を維持する。人とコミュニケーションをとる。

そして世界は資本主義の底が抜けたようで、地政学的なパラダイムも大きく変容するだろうという。しかし、「生老病死」という人生の原理を変わらないとし、「何をくよくよ川端柳、水の流れを見て暮らす」とい坂本龍馬作とされている都都逸で締めくくっている。まさに高年世代のための「勇気と癒しの書」となっている。

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ユーチューブの朗読を聴く。

芥川龍之介

  • 『運』。「出典は『今昔物語』巻十六「貧女清水観音値盗人夫語第三十三」である。目先の変わった物語であるが、原作の筋をほぼそのまま踏襲している。芥川は、物質的な幸福だけを真の幸福と考える若侍と、精神の内部における幸福を最大視する翁と、この相対する二つの型の人間の会話を最後において、種類の異なった幸福感を示し、原作に多少の綾を付与した」。
  • 『秋』。従兄で作家志望の「俊吉」と結婚するはずだった才媛の「信子」は別の青年と結婚し、妹の「照子」と「俊吉」が結婚する。「信子」は自らの寂しさを秋と思う。芥川の作風の新境地として評価された現代小説」。。

太宰治『親友交歓』。「自称小学校時代の友人という男の訪問を受けたときのやりとりを描いた話で、主人公の「私」はそのことが自分の記憶に消し難い記憶を残すという。皮肉の効いたユーモラスな作品でありながら、戦後の風潮をよく捉えた作品である」。

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「名言との対話」4月4日。三浦光世「よくぞ綾子書いたのう。いや~いや~いや~、書かせていただいたのだ。忘れてはならんぞ」

三浦光世(みうら みつよ、1924年4月4日 - 2014年10月30日)は東京都生まれ、北海道出身の歌人

小説家・三浦綾子の夫であり、財団法人三浦綾子記念文化財団理事長、三浦綾子記念文学館館長を務めた人物である。2006年に旭川三浦綾子文学記念館を訪ねたとき、二人の愛の物語に感動したことを思い出す。

1927年に父の開拓地北海道滝上村に家族で移住するが、父の死亡後、母方の祖父の家に預けられ約10年を過ごす。小学校卒業後、運送社に就職。1940年、営林署に就職。

1941年7月、腎臓結核のため右腎臓摘出手術を受け、17歳から11年間療養生活を送る。正岡子規の影響により歌誌「アララギ」に入り、歌人として出発する。また闘病中にキリスト教に出逢い洗礼を受ける。1952年結核完治。1955年、闘病中の堀田綾子を知り1959年に結婚し、24歳から37歳までカリエスで絶対安静でベッドの上で過ごした綾子を支えた。1966年に営林署を退職し、以後、綾子の作家活動を支える。綾子42歳のデビュー作『氷点』のタイトル発案者であるほか、1926年の十勝岳噴火を題材に『泥流地帯』を執筆することを提案している。

1971年3月から40年にわたり、日本キリスト教団出版局「信徒の友」歌壇選者であった。また日曜版しんぶん赤旗歌壇選者でもあった。その他、自伝『青春の傷痕』『少年少女の聖書物語』や妻綾子のことを書いた『三浦綾子創作秘話』『死ぬという大切な仕事』など著書が多数ある。1998年、旭川市三浦綾子記念文学館が開館し、2002年より12年間、館長をつとめた。

著書に妻との共著「太陽はいつも雲の上に」がある。 自著に「少年少女の聖書物語」「妻と共に生きる」「死ぬという大切な仕事」「綾子へ」 「妻三浦綾子と生きた40年」「希望は失望に終わらず」 。歌集「夕風に立つ」などがある。

三浦綾子・三浦光世の短歌―― 精読「アララギ土屋文明選」(田中綾)では、夫の光世は「大正十二年生活苦をかこつ父の日記胎児吾を堕さむかと惑ふ言葉あり」との記述を見つけたことが紹介されている。そして1963年12月17日には、「よくぞ綾子書いたのう。いや~いや~いや~、書かせていただいたのだ。忘れてはならんぞ」という光世の言葉を紹介している。綾子の初めての小説は、光世の予言どおり、朝日新聞の1千万円の懸賞小説で一席になった。その『氷点』執筆の追い込み期にその写しをとりながらの言であった。

三浦綾子が単著本84作を含め、100冊以上の本を世に送り出したのは、この人の献身的な支えによっていることがわかる。文字通りの二人三脚で、愛する人の才能を育てながら、自分の人生を生き切った人がここにいた。この人の存在の発見も嬉しく思った。