図解塾ー「文章がスラスラ書ける技術」

図解塾8回目。本日は「図解文章法」。拙著「図で考えれば文章がうまくなる」(PHP)の内容でした。「文章がスラスラ書ける技術」です。9人が参加。以下、塾生の感想。

  • 久恒先生、いつもたくさんの気づきを与えていただき、ありがとうございます。今回のテーマは「文章がスラスラ書ける技術」。アウトプットが苦手な私にとってはあこがれのテーマであると同時に、講義について行けるだろうかと不安に感じるものでもありました。そのため、講義中に「図解を見て文章を書く」という指示が出たときは、思わず退出したくなりました。けれど、先生がおっしゃった「図解は文章を書くための設計図だから」という言葉を頼りにしばらく図をながめたら、伝えたい内容が浮かんできて、短時間だったのに文章を書くことができました。課外講義の目標である「本を書く」ことは論外ですが、自分が伝えたいことをまず図解にできれば、苦手なアウトプットがスムーズにできるかも…という気持ちになれましたので、これからも楽しく図解作成を続けたいと思います。
  • 今日も元気の湧くお話をありがとうございました。最後にご紹介のあったご著書「図で考えれば文章がうまくなる」、本棚を覗くと2005年の第1版と2008年の文庫版の2冊がありました。当時、中味は殆ど読まずに「分かったつもり」でいたのです。今、著作中ですが、真剣に読んでいればとっくの昔に出版に至っていたことでしょう。今晩は後悔の念でいっぱいです。「文章の設計図」!! 今日受講された皆様は幸せです。
  • 久恒先生、皆様、本日もお疲れさまでした。上手い文章作りには作文テクニックではなく、自分が伝えたい着眼点や結論を的確に予めまとめておく事の方が遥かに大事。これには図解のプロセスが欠かせない。という思いを深めました。職場で上司から「で、結論は何?」「で、どうしたいの」と詰問された事を思い出しながら講義を聞きました。今後も実践で積み重ねるしかない、です。さて私は今後の生活を「どうしたいの?」モウ、しどろもどろ、です。一方気付きですが、「聴き手に刺さる(相手の関心事を意識した)ストーリ展開」もまた重要という事も思い出しました。主にケースバイケースな対応とは思いますが、久恒先生が心得ておられる中で普遍的な「使える知恵」(予め相手を知る為にやっておきたい準備など)がありましたら、またの機会にご紹介頂けたら幸いです。次回も宜しくお願い致します。
  • 本日もたいへんありがとうございました。これまで定型的な文章ばかり書いてきました。結局、形や枝葉末節なことばかり気にして、何を書くべきかという本質的なところが分かっていなかったことを思い知らされました。「文章を書くためには図で考える」この一言に尽きます。
  • 今夜もありがとうございました。文章がすらすら書ける技術。私がこれまですらすら書けた文章と、そうでない文章の違い。これが理解できたのが大きな収穫でした。いきなりワードを新規で開くと、何から書けばいいかわからない。出だしでいいことを書かないと、勢いがつかないような気がして、結果、一文字目を書き出せない。(仕事の文章とか、期限が迫ってきて精神衛生上良くない)ちょっと考えて、単語を並べるようになる。どんな起承転結になろうと、この話には触れなければ、と思いながら。キーボードは打てるようになる。でも、A→B→C→D→E→って節を書いていって、「あれ、BとDって同じこと言ってないか?」とか「前に書いたことと似ているような気がして筆が進まなくなった」とかなにか腑に落ちないような気がしてくる。腑に落ちない状態を抱えていると、キーボードの前に座るのも億劫になってくるんですよね。今までの文章法は、キーボードに向かう技術。今夜の図解塾は、文章を書きたいっていう思いが消えないように、ときどき紙やパワポに向かってみようよ、っていうお話。図をたくさん描いてみたい、そこから文章を書いてみたい。そんな思いが生まれる授業でした。ありがとうございました。
  • 今日もありがとうございました。文章を作るのは苦手意識があって、講義中に文章を書く時間があり、とても焦りました。だけれど、図解があると、それが設計図のようになり、丸と矢印の間などに接続語や説明を埋めていくと、文章が書けそうな気がいたしました。知らない分野でも、分からな単語など調べながら、図解を自分なりに文章におとしていくと、関係性が見えているので、知識として自分にも入ってくれるような感覚になりました。良いことばかりですね。宿題では自分の文章を書くのにトライしてみたいと思います。見える化とは、図解にすること。良いですね。不安な毎日ではございますが、お身体にはお気をつけてゆたかな毎日が送れますよう。次回もよろしくお願いいたします。

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図解塾の直前に書斎のパソコンが動かなくなってパニックとなったのですが、家族のアドバイスをもらいながら、何とか別の部屋で別のパソコンでやりきることができました。

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「名言との対話」4月21日。奥津要「つねに現代の大衆と対決する生きた芸術落語の行く道はけわしい」

興津 要(おきつ かなめ、1924年大正13年〉4月21日 - 1999年平成11年〉10月20日)は、近世文学研究家、落語研究家。

 栃木県足利市生まれ。早稲田大学文学部国文学科卒業。大学院を経て、教育学部助手。専任講師、助教授を経て、1968年早稲田大学教育学部国語国文学科教授、1995年定年退任、名誉教授。

専門は近世後期の滑稽本と明治期の落語、戯作、ジャーナリズム。1972年から1974年にかけて講談社文庫として刊行した『古典落語』シリーズ全6巻は200万部を超すロングセラーとなり、現在は一部が講談社学術文庫で刊行されている。その他一般向けの著作を数多く著した。

そのうちの一書『落語』(講談社学術文庫)を読んだ。落語の歴史を展望する芸と芸人の400年史である。

戦国大名の側近として徒然をなぐさめる御伽衆(おとぎしゅう)がいた。武人、茶人、歌人、学者、芸能人などがいた。武人出身者は講釈師となり、町人出身者が滑稽話をするようになり、彼らが落語家になっていった。江戸中期には円生、幕末・明治には円朝が出た。明治以降は落語人気は全国に及ぶ。落語という芸と、それを担った落語家という芸人の400年に及ぶ歴史を記した労作である。

身近な芸能ではあるのに学者は研究対象にてこなかったため、系統的な落語史はなく、その一端をこの人は担おうとしたのだ。

元和9年(1623年)の『醒睡笑』から、1968年の柳家三木亀松と3代目林家染丸の死で終わる壮大な歴史絵巻だ。落語は2023年に400年を迎えることになる。

戦後の落語ブームの影響で1954年に東大、早稲田、慶応、法政の4大学の学生たちが落語の連盟をつくった。このとき、興津は「全落連」とダジャレを飛ばし、それが正式名称となり、各大学がぞくぞくと加入した。そういうセンスはやはり落語愛好家である証明だ。

 以下、著書。『転換期の文学 江戸から明治へ』早稲田大学出版部、1960年。『大衆文学の映像』桜楓社〈現代の教養〉、1967年。『明治開化期文学の研究』桜楓社、1968年。『落語 笑いの年輪』角川書店角川選書〉、1968年 のち講談社学術文庫 。『日本の春話三〇〇夜』自由国民社〈エース・ブックス〉、1969年。『日本文学と落語』桜楓社〈現代の教養〉、1970年。『落語界のエース 舌三寸の名人芸に生きた円朝さ・え・ら書房〈日本史の目〉、1972年。『異端のアルチザンたち 応賀・円遊・金鵞・小せん・藍泉』読売新聞社〈読売選書〉 1972年。『今昔ポルノ物語』月刊ペン社、1972年。『落語と江戸ッ子 巷に生きたひとびと』参玄社、1973年。古典落語と落語家たち』参玄社、1974年。『恋しき落語家たち』旺文社旺文社文庫〉。『忘れえぬ落語家たち』河出書房新社河出文庫〉。『大衆文学の映像 思い出の映画史』桜楓社、1974年。『落語とお色気』参玄社、1974年。『落語の風土』読売新聞社、1975年。『最後の江戸戯作者たち』実業之日本社〈有楽選書〉、1976年。『落語よもやま咄』光風社書店、 1977年。『写真で見る大衆文学事典』桜楓社、1978年。『落語 江戸から近代へ』桜楓社、1979年。『江戸庶民の風俗と人情』(正)(続)(続々)(大尾) 桜楓社、 1979年 - 1980年。『江戸小咄漫歩』作品社、1981年。『江戸小咄散歩』旺文社〈旺文社文庫〉。『小咄江戸の一年』角川書店角川選書〉、1981年。『江戸食べもの誌』作品社、1981年 のち旺文社文庫朝日文庫。『新聞雑誌発生事情』角川書店角川選書〉、1983年。『江戸娯楽誌』作品社、1983年 のち講談社学術文庫『江戸気質と上方気質 日本人の生きかた』早稲田大学出版部〈リカレントブックス〉、1983年。『江戸小咄女百態』作品社、1983年 のち旺文社文庫ちくま文庫 。『どうでもいいけど気になる言葉 おもしろ語源考』学燈社、1983年。『おもしろ雑学日本語』『日本語おもしろ雑学歳時記』三笠書房〈知的生きかた文庫〉。『江戸吉原誌』作品社、1984年。『江戸小咄商売往来』旺文社〈旺文社文庫〉、1986年。『語源-なるほどそうだったのか 意外なルーツと珍妙なエピソードがいっぱいの600語』日本実業出版社、1986年。『言葉のルーツ』PHP文庫。『落語家 懐かしき人たち』旺文社〈旺文社文庫〉、1986年。『落語家 いま、むかし』旺文社〈旺文社文庫〉、1987年。『大江戸長屋ばなし 庶民たちの粋と情の日常生活』PHP研究所、1987年 のちPHP文庫 。『日本の女性美』求竜堂、1988年。『江戸川柳散策』時事通信社、1989年。『探訪江戸川柳』時事通信社、1990年。『江戸味覚歳時記』時事通信社、 1993年。『江戸商売往来』プレジデント社、1993年。『大江戸商売ばなし』PHP文庫。仮名垣魯文 文明開化の戯作者』有隣新書、1993年。『江戸川柳女百景』時事通信社、1994年。『食辞林 日本の食べ物・語源考』双葉社、1994年 のち新書。『明治新聞事始め 「文明開化」のジャーナリズム』大修館書店 、1997年。『江戸文学ウォーキング 読んで楽しく歩いてみよう東京漫歩記』ごま書房、1999年。

以上、40年間に及ぶ「落語」関係の出版物の多さには驚く。この人のおかげもあった落語の命は長く命脈を保つだろう。どのような芸能分野も、芸人とファンとで支えられているが、それを記し、意義と意味を教えてくれる人も必要だ。落語界は興津要を得たことは幸いだった。

その興津は、この本を書いた1968年時点で、談志、円楽などもそれなりに努力をしているが、「つねに現代の大衆と対決する生きた芸術落語の行く道はけわしい」と結んでいる。それから半世紀が過ぎたが、けわしい道を歩み続けた落語の生命力は強いことが証明されている。芸能は、大衆にウケて、広く受け入れら得なければ消滅する運命にある。そこが深さを追う芸術と違うところだろう。興津は「芸術落語」という言葉を最後に使っている。この意味を考えたい。