神奈川近代文学館「三浦哲郎展--星をかたりて、たれをもうらまず」

神奈川近代文学館三浦哲郎展--星をかたりて、たれをもうらまず」。

緊急事態宣言下では美術館、博物館は開館していない。ところが先日訪問した日本近代文学館神奈川近代文学館は開いています。

港が見える丘公園の一角にある神奈川近代文学館で作家の三浦哲郎(1930-2010)展をみてきました。

f:id:k-hisatune:20210524220512j:image
f:id:k-hisatune:20210524220516j:image
f:id:k-hisatune:20210524220519j:image

今まで縁が無くて名前しか知らなかったが、兄弟姉妹の多くが自死や失踪という壮絶な家族関係とそれが源となった膨大な作品群に驚いた。

長女・縫は自殺。長男文藏は失踪。次女・けふは夭折。次男・益男は失踪。三女・貞子は自殺。そして生き残ったのは四女・きみ子と三男の哲郎のみという凄まじい環境だった。哲郎の6歳から始まる、こういう人の人生は人とは違ったものになるだろうことは推測できる。自身は戦死を当然こととしていた三浦哲郎は、故郷の八戸を大事にする、自身の家族をテーマとする作家となった。運命に翻弄されながらも必死に生きる名もなき人々の「生」に寄り添った。

このテーマは50歳過ぎまで書き続けている。書き続ける他はない。それは生きることと同じだった。兄弟たちの汚名を雪(そそ)ごうとし、自身の存在を確かめるように家族の歴史を描き続けた。

1984年、3人の姉兄をモデルとする長編『白夜を旅する人々』で大佛次郎賞を受賞。この1051枚の作品は代表作となった。ただひとり生き残た姉のきみ子をモデルにした『暁の鐘』(仮題)が未完に終わっている。

八戸出身。早稲田大学政経学部を中退し帰郷。文学を志願して文学部に再入学。そこで友人らと同人誌『非情』を創刊し、発表した『誕生記ーー星をかたりて、たれをもうらまず』、「生と死が絵の前でどんでんがえしになった終戦の日」以降のとまどいと生への希求を描いた『遺書について』が機縁となって、24歳で出会い生涯の師となった井伏鱒二との濃密な関係を持った。「君、今度いいものを書いたね」と言葉をかけられ感動する。

この作品は井伏の示唆で『一五歳の周囲』と改名、改稿し、新潮社同人雑誌賞を受賞する。「しんとして古典を読むこととと習作を重ねること以外には、廻りくどい人生行路をとるほかはないように考えられます」と励まされている」。「とにかく僕らは書こうよ。書くことしかないじゃないか」。三浦は偶然に再開した友人の船越と出会わなかったら井伏の作品に触れることはなく、文学とは無縁の人間になっただろうと『文学的自叙伝』に記している。人生は偶然の「出会い」によってどう転ぶかわからない。

生涯の伴侶となる徳子との出会いから結婚までを描いた小説『忍ぶ川』で芥川賞を受賞し文壇に30歳でデビューする。この悪品は熊井啓監督、栗原小巻加藤剛が主演の映画となった。

モーツアルトシューベルトソナタを聴きながら記した言葉「充分に表現するためには、決して表現しすぎないこと。しかもそれでいて完全に表現すること。ただし、ごくわずかの言葉で表現すること」を短編をかくときの自戒にしている。三浦哲郎は短編の名手となった。

天正遣欧使節を描いた『少年賛歌』で日本文学大賞。人肉食もあったといわれる天明飢饉を描いた『おろおろ草子』、赤毛の芸者の半生記『海の道』(「日本の一地方の地方史」を叙事詩のように書いた)、哲郎をとりあげた産婆の聞き書き『しづ女の生涯』、『愛しい女』、『繭子ひとり』などの女たちの物語もある。

八ヶ岳の書斎でのインタビュー映像。「やり残した仕事をやりたい」「くちはばったいが、先生をこえる作品を書きたい」という言葉が印象的だ。

1939年刊行の『忍ぶ川』は深川を舞台とした男女の交流を描く自伝的作品だ。『忍ぶ川』(新潮文庫)を読んだ。

 選考委員会に欠席した井伏鱒二が「作品は清純である点に私は心をひかされた」と選評を書いているように、長く読まれるべき青春文学の名作だ。三浦哲郎の作品はもっと読みたい。 

忍ぶ川 (新潮文庫)

忍ぶ川 (新潮文庫)

 

 

ーーーーーーーーーーー

「名言との対話」5月24日。野上照代「往時渺茫

野上 照代(のがみ てるよ、1927年5月24日 - )は、日本の映画スクリプター。黒沢プロダクション・マネージャー。

都立家政女学校卒業し、図書館講習所入学。卒業後、山口高等学校図書室に着任。終戦後、東京へり、人民新聞社に入社。1947年には八雲書店に入社する。同僚に草柳大蔵、仕事で井伏鱒二と知り合い親交を深めた。

女学生時代に伊丹万作監督の『赤西蠣太』を観て、ファンレターを書いたのがきっかけで、伊丹家と親しくなり、約1年間、万作の長男伊丹十三と同居し面倒を見る。1949年の監督の没後、大映京都撮影所で記録係(スクリプター)の見習いとなる。

1950年、黒澤明監督の『羅生門』にスクリプターとして参加。1951年、東宝へ移り『生きる』以降の全黒澤映画に記録・編集・制作助手として参加した。その間、1966年よりサン・アドにも在籍し、CM制作なども手がけた。1979年、同社を退社。

1984年、自らの少女時代を描いた「父へのレクィエム」が読売ヒューマンドキュメンタリーの優秀賞を受賞。2008年これを『母べえ』として山田洋次監督が映画化した。

 『天気待ち 監督・黒澤明とともに』(草思社文庫)を読んだ。さすが「記録係」で、黒澤映画の撮影現場のリアルな情景が細部まで克明に描かれていた。

黒沢監督の撮影現場でのふるまいと一言、一言がリアルで興味深い。黒澤の自伝『蝦蟇の油』を読んでみたい。

黒沢明は撮影助手のなるはずだった三船に惚れこんで大スターに変身させた。「おれは三船に惚れて、あいつの素晴らしい個性と格闘した」。

「俳優には絶えず新しい役に取り組ませ、新鮮な課題を与えないと、水をやらない植木のように枯れてしまう」「俳優はシンフォニーと同じでバランスが大事なんだ」

「映画監督という職業が何に一番よく似てるかっていえばいうとね、オーケストラのコンダクターなんだよ」

黒沢監督は「要するに、いろんなことがあったよ」という言葉が好きだった。

 この本の中で、北海道の牧場主・白井民平さんがでてきた。『七人の侍』で使う150頭の馬を集め、訓練する役割だ。馬術界の雄で、小柄だが大きな声と豪放な人柄だった。わたしの20代の北海道千歳時代に親しくなった人だ。後年、吉永小百合さんの「鶴の恩返し」という作品で協力依頼に見えたことがある。白井さんは後に自殺したと聞いてショックをうけたことがある。

たった一本の映画「赤西蠣太」が野上照代の人生を決定してしまった。野上は伊丹万作は最初の師匠となった。伊丹万作には名言、箴言が多いそうだ。自伝の『壁新聞』を読んでみたい。 「朝、出勤するとき、撮影所の全部が一眸のうちに入る地点に来たらそこで一度たちどまれ」

野上の述懐を聴こう。「撮影中の天気待ちは楽しい」。それはみなが一服できるからだ。その時間は人のうわさで過ごす。 「役者稼業ほど競争の厳しい商売はないだろう」。「映画というものは隅から隅まで、丁寧に作ってゆくものなのである」。

89歳、2016年の『完本 天気待ち』では、「何と幸運に恵まれた人生だったことよ」と回顧している。その中で「往時渺茫」という言葉が出てくる。茫々ではなく、渺茫だ。数日前に亡くなった八木哲郎さんの作品に「往時茫々」という言葉があったことを思い出した。あまりにも広大でつかみきれない様子を表現したものだが、「往時渺茫」とはどういう意味なのだろうか。調べると、元和14年(819年)3月11日、中国の詩人・白居易は4年も別れていた親友元稹と、峡中の地で偶然に出会う。そのときに書いた詩の一節にあった。

 往事渺茫として都べて夢に似たり さりし昔は果てしなく、すべては夢に似て

 舊遊零落して半ば泉に歸す 旧友落ちぶれ、半ばは黄泉に帰す

 酔悲して涙を灑ぐ春盃の裏 悲しく酒に酔い、零れる涙 盃の中

 吟苦して頤を支ふ暁燭の前 詩を吟ずるも苦しくて、頬杖をつく燭の前

昔あったできごとは、はるかに遠い彼方にうっすらと、まるで夢のように浮かんでみえる。生涯におけるさまざまの出会いや、出来事を、折に触れて思い出すことが私にも多々ある。往時は茫々たる時空のなかにあり、また人々との出会いと別れは渺茫として夢のようだ。 いい言葉をもらった。