翡翠の撮影者。
- 『名言の暦 戦後命日編』の原稿修正が終了。以下の不明なところを調べ終わりました。「名言集」の第5弾です。6月10日発刊予定。山本周五郎。スカルノ。野上弥生子。五味康佑。戸田城聖。高橋和巳。東龍太郎。ヘレン・ケラー。杉原千畝。和田一夫。布施辰治。サハロフ。相田みつを。曽宮一念。石水幸安。桂米朝。島岡吉郎。笹森清。荻昌弘。和田一夫。寺枝明彦。栗原すみ子。
- 大学院の4回目の授業準備。
- 松岡和子(1942年生):シェークスピア全37作の完訳が終了。1993年から2020年まで27年間。51歳から78歳までだから壮年期・実年期を費やして成したライフワークだ。松岡和子は旧満州新京生まれ。東京女子大学英文科卒業、東京大学大学院修士課程修了。1982年から東京医科歯科大学教養部英語助教授、教授となったが、蜷川の全作品の舞台化の翻訳を頼まれ、1997年翻訳に専念するため退任した。2020年、文化庁長官表彰「永年にわたる翻訳の経験を生かし、国語力答申などの取りまとめに尽力するなど、我が国の国語施策に多大な貢献をしている」。(NHKラジオ深夜便)
- 朝はヨガ:「ヨガのできる体と心に感謝して今日も素敵な一日をお過ごしください」
- 夜は深呼吸学部:3時間。6月より第二木曜日に滑川海彦「ジョブス。マクルーハン。キシンジャー。食品。英文法。孔子。白川静。応仁の乱。、、、3000円」。コロナ紀。みんなの図書館、リトルブックストア・ジン。第一世代、第二世代、第三世代、第四世代。バインド。参加型社会学会(7月7日)。ライブコミュニケーション。70年小説。
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「名言との対話」5月29日。芦屋雁之助「どんくさい男ですが 一生懸命やっていればお客様の心に伝わるものができると思う」
芦屋 雁之助(あしや がんのすけ、1931年5月29日 - 2004年4月7日)は、日本の俳優、歌手。
漫才や芝居の舞台に立っていたが、1954年、「OSミュージックホールに入り、座付き作者雁之助が花登筺 のコントを演じることになり、弟の小雁とともに喜劇役者となる。
1959年花登の「劇団・笑いの王国」に参加し、「人気の大村崑、実力の雁之助」といわれる2枚看板の一人になった。毎日放送「番頭はんと丁稚どん」で人気を集めた。大村崑と芦屋雁之助は1931年の同年生まれであるが、常に2番手であった雁之助は、不満を持つ。両雄並び立たず、雁之助は1964年に劇団「喜劇座」を旗あげし、座付き作家の藤本義一の「裸の大将放浪記」に出演し人気をはくす。
1969年に劇団を解散し東京へ進出。1979年の森光子主演「おもろい女」で芸術祭大賞。1980年「裸の大将放浪記」(関西テレビ・フジテレビ)が当たり役となった。
雁之助は歌手としても活躍している。1984年には「娘が嫁ぐ日がこなけりゃいいと 男親なら誰でも思う」から始まる「娘よ」は150万枚の大ヒットとなり、紅白歌合戦に出場する。日本レコード大賞得特別賞を受賞している。
放浪の画家であった日本のゴッホ・山下清を描いた「裸の大将放浪記」は、1957年からの17年間で82作を数えた。坊主頭にランニングシャツ、短パン姿がトレードマークになった。この作品で「男はつらいよ」の寅次郎と同じく雁之助の山下清は国民的キャラクターとなった。マドンナには若手女優が多く起用され、出演する事は女優の登竜門とされたのも同じだ。渥美清「男はつらよ」は1969年から26年間で48作品ある。この二つの作品は、私もテレビで十分に楽しんでいる。
雁之助の姿が自分に瓜二つだったため、山下清自身は「舞台にもぼく、客席にもぼく」と言ったというエピソードもある。「おにぎりがもらえるまで歩くから、もらえないってことはないんだな」という山下清が語るセリフも実感のこもった名言だ。
雁之助の生涯を概観しながら、「代表作」について考えた。人は何によって記憶されるか。何によって記憶されたいか。それは代表作によって、であろう。すぐれた仕事を膨大な量こなした人でも、代表作がなければなかなか記憶には残らない。
「一生懸命やっていればお客様の心に伝わるものができると思う」という雁之助の代表作は、「裸の大将放浪記」だ。このライフワークとなった作品は、1980年から17年という長い年月かけて、視聴者の心に届いたのである。