日経新聞の連載小説『ミチクサ先生』を愛読中ーー漱石の多作の秘密

伊集院静日経新聞の連載小説『ミチクサ先生』が面白い。夏目漱石のことを書いたもので、毎朝読むこのを楽しみにしています。

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「契約には、年に二度、百回程度の連載小説を執筆することが盛り込まれていた」。「一年の大半を朝日のために小説を書き続けなくてはならなかった」。「結果として執筆はとどこおらず、短い歳月の中で、夏目漱石という作家は、驚くほどの量の、しかも質の秀れた小説を書き上げることになるのである」

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以上は帝大を辞めて朝日新聞に移る時のいきさつに関しての5月25日の記述です。

2017年9月24日にオープンした日に新宿区立漱石山房記念館を訪問した。漱石山房記念館には、帝国大学を辞めて朝日新聞に入る時の条件について様々のことを確かめている手紙類が展示されていました。朝日はこの交渉において、漱石を小説を書くことに没頭させる待遇を提示しています。そのことが結果的に、短い時間の中で、量と質、ともに優れた小説を生むことになったというのが伊集院静の見立てです。

早稲田から歩いて10分に記念館は、漱石が1907年の40歳から1916年に49歳で亡くなるまで住んだ場所です。この年に東京帝大を辞し朝日新聞社に入社し、わずか10年足らずの間に、「抗夫」以後、「夢十夜」「三四郎」「それから」「門」「彼岸迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」「硝子戸の中」などの作品を書いた。それは日本近代小説の金字塔となった。やはり、伊集院の見立ては当たっているように思います。締め切りが大事なことをうかがわせます。

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以下は、漱石帝国大学を辞める前に朝日との交渉に臨んだ心境がわかる手紙です。給与、仕事の中身、自由度など、細かく書いているので、興味深い。

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1907年3月4日

、、、場合によりては池辺氏と直接に御目にかかりご相談を遂げ度と存候。然し其前考の材料として今少し委細の事を承り置度と候。

一 手当の事  其高は先日の仰の通りにて増減は出来ぬものと承知して可なるや。それから手当の保証 是は六やみに免職にならぬちか、池辺氏のみならず社主の村山氏が保証してくれるかと云ふ事。何年努めれば官吏で云ふ恩給といふ様なっものが出るにや、さうして其高は月給の何分一に当るや。小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺候。

次には仕事の事なり。新聞の小説は一回(一年)として何月位つづくものをかくにや。それから売○の方から色々な苦情が出ても構わぬにや。小生の小説は到底今日の新聞には不向と思ふ夫でも差し支なきや。尤も十年後には或はよろしかるべきやの知れず。然し其うちには漱石も今の様に流行せに様になるかも知れず。夫でも差支なきや。

小説以外にかくべき事項は小生の随意として約どの位の量を一週何日位かくべきか。

それから学校をやめる事は勿論なれども論説とか小説とかを雑誌で依頼された時は今日の如く随意に執筆して然るべきや。

それから朝日に出た小説やら其他は書物と纏めて小生の版権にて出版する事を許さるるや。

小生はある意味に於て大学を好まぬものに候。然しある意味にては隠居の様な教授生活を愛し候。此故に多少躊躇致候。御迷惑とは存じ候へど御序(ついで)の節以上の件件御聞き合せ置被下度候。尤も御即答にも及ばずもし池辺氏に面会致す機会もあらば同氏より承りてもよろしく候。先は用事のみ 草々  

三月四日   白仁三郎様    夏目金之助

大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やて見度候。是も変人たる所以かと存候。

 1907年3月31日

、、大約佐の如き申出を許可相成候へば進んで池辺氏と会見致し度と候。

一 小生の文学的作物は一切を挙げて朝日新聞に掲載する事

一 但し其分量と種類と長短と時日の割合は小生の随意たる事。、、、

一 報酬は御申出の通り月二百円にてよろしく候。但し他の社員並に盆暮れの賞与は頂戴致し候。是は双方合して月々の手あて(?)の四倍(?わからず)位の割にて予算を立て度と候。

一 もし文学的作物にて他の雑誌に不得己(やむをえず)荊妻の場合には其都度朝日社の許可を得べく候。(是は事実として殆どなき事と存候。、、、、)

一 但し全く非文学的ならぬもの(誰がみても)或は二三頁の端もの、もしくは新聞に不向なる学説の論文等は無断にて適当な所へ掲載の自由を得度と存候。

一 小生の位地の安全を池辺氏及び社主より正式に保証せられ度候。是も念の為に候。大学教授は頗る手堅く安全のものに候故小生が大学を出るには大学程の安全なる事を希望致す訳に候。、、、万一同君(池辺氏)が退社せらるる時は社主より外に条件を満足に履行してくれるものなく、、、、社主との契約を希望致し候。

必竟ずるに一度大学を出でて野の人となる以上は再び教師○にはならぬ考故に色々面倒な事を申し候。熟考せば此他にも条件が出るやも知れず。出たらば出た時に申し上げ候が先ず是丈を参考迄に先方へ一寸御通知置被下度候先は右用事迄 草々頓首

 三月十一日        夏目金之助

白仁三郎様 

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「教師という仕事はつくづく大変だったのだと思います。今はもうすっかり私は肩が凝らなくなりました」(同じく5月25日。この辺りは私も同感)

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「名言との対話」5月31日。神戸淳吉「動物たちの生態を忠実にふまえたメルヘンを書いてみたかった」

神戸 淳吉(かんべ じゅんきち、1920年5月31日 - 2011年8月10日)は、日本の児童文学作家

日大専門部を卒業し、賀川豊彦のもとで、大戦中は軍需工場で、戦後は児童福祉施設で働く。1945年、受洗、結婚。1946年、中央社会事業協会に勤める傍ら、童話をつくり始め、童話雑誌に作品を発表。1949年、いぬいとみこらと児童文学同人誌『豆の木』を創刊。1955年、文筆活動に入る。「ジュニア・ノンフィクション作家協会」を始める。その後「ノンフィクション児童文学の開」を結成。

童話は、1967年の『ジャングルのはこぶね』など、多くの童話を書いている。ノンフィクションは、「大仏建立物語」「元禄の白い塩」などがある。また、古今東西の偉人の伝記も手がけている。

1967年刊行の『ジャングルのはこぶね』(日本キリスト教児童文学全集14。教文館)を読んだ。本格的な童話は久しぶりだ。170ページの大作である。この日本キリスト教児童文学全集には、巌谷小波、久留島武彦、島崎藤村有島武郎賀川豊彦、山田慕鳥、坪田譲治村岡花子などの名が執筆陣にみえる。

 耳の大きなオカピという動物の王子・カーロが社会で様々な事件に出会う。ドイツの探検家によって発見され、一頭はニッポンに送られる。好物のフウフウという木の木の葉がないため弱ってしまう。アフリカ・コンゴのジャングルに戻される。箱舟をつくったノアじいさんのは二本足(人間)が自分たちを苦しめているという。そしカーロはコンゴの滝の自然動物公園という最後の箱舟にたどりつく。

この物語の中で「ジャングル熱」がでてくる。「毒のあるかぜのようなもんだ。おもいがけないところで、いちじにひろがるよなことがある」とある。そういう森の奥から新型コロナなのようなウィルスが人間を襲う可能性をいっている。 

神戸淳吉は「伝記」にも作品が多い。1958年の「ファーブル」から始まる。「シュバイツアー」「リンカーン」「ケネディ」「シートン」「牧野富太郎」「ヘレン・ケラー」「二宮金次郎」「徳川家康」「高山右近」「武田信玄」「新渡戸稲造」「豊田佐吉」「バッハ」と続き、1993年の「エジソン」まで多くの偉人の伝記を書いている。

神戸淳吉の動物をみる目はやさしい。そして、この人の主題は人に移っていく。動物を中心とした空想を描く「メルヘン」から、人間を描く「ノンフィクション」の伝記へと関心が移っていくのだが、キリスト教信仰を土台として、生涯を通じて子どもたちへの贈る物語を書いた人だと理解したい。