■オンライン(zoom) 参加者にアドレスをお知らせします。
■共催 NPO法人知的生産の技術研究会。(一社)Tsumugi 。こども食堂Tsumugi。学生団体ICS。あーすりんく。ゆめぴっく宇宙桜グランプリ実行委員会
[https://www.facebook.com/events/852465688813251/?acontext=%7B%22ref%22%3A%2252%22%2C%22action_history%22%3A%22[%7B%5C%22surface%5C%22%3A%5C%22share_link%5C%22%2C%5C%22mechanism%5C%22%3A%5C%22share_link%5C%22%2C%5C%22extra_data%5C%22%3A%7B%5C%22invite_link_id%5C%22%3A812344339403323%7D%7D]%22%7D:embed:cite]
ーーーーーーー
「名言との対話」6月17日。原節子「キモノが日本人の美を表現するものだと思われます」
原 節子(はら せつこ、1920年6月17日 - 2015年9月5日)は、日本の女優。
神奈川県生まれ。小学校時代から日本人離れした顔立ちは目立っていたという。1935年、姉・光代と結婚した熊谷久虎の勧めで、女学校を中退し14歳で日活多摩川撮影所に入所。同年のデビュー作『ためらう勿れ若人よ』の役名の「節子」をそのまま使い芸名となる。1936年、山中貞雄監督に乞われ『河内山宗俊』に出演。
その撮影中にアーノルド・ファンク監督の目に留まり『新しき土』(1937年)への出演が決まる。映画は大ヒットし、一躍スターダムにのし上がる。
戦争中は『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)をはじめ、『望楼の決死隊』(1943年)などの戦意高揚映画に出演。
戦後、『わが青春に悔なし』(1946年)、大ヒットした『青い山脈』(1949年)などでスターとなる。1949年、初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。以後、1961年の『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演。『東京物語』(1953年)は小津監督の最高傑作となり、原節子もまたこの作品で女優として頂点を極める。1962年、稲垣浩監督による東宝創立30周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、原は大石内蔵助の妻りくを演じた。これが原にとって最後の出演作品となった。引退宣言も何もないまま女優業を引退。享年95。
「伝説の女優」を描いた貴田庄『原節子物語 若き日々」(朝日文庫)を読んだ。
デビューから1年で日独合作映画「新しき地」のヒロインに抜擢された原節子を描いた物語だ。人気と演技の未熟さに戸惑う中、舞台挨拶のため訪れた欧米で見たものを描く。少女が女優に変身していく姿を丹念に負ったノンフィクションだ。
筆者は、原節子を強運の人、ついている人と表現している。「新しき土」はヒトラーのドイツとの共同制作作品だ。ドイツ人に日本への共感を持つように導くと言う政治的使命があった。監督が2人いて日本人では伊丹万作監督であった。この作品はファンク版と伊丹判の二つができた。この1本の作品でだけで原節子はトップ女優に上り詰める。
16歳の原節子について、この本でよくわかる。
同行した川喜多かしこは「うっとりするほど美しい。こんなにあきのこない深みのある美しさを持った人は日本人では少ないと思う」と書いている。
原節子は「真面目で綺麗好きなドイツ、自由で気軽なフランス人、どこまでも、明るく愉快なアメリカの国」と総括している。また原節子は一番羨ましく感じたこととして、欧米では映画が単なる娯楽などではなく、立派な芸術として認められ、映画界で働く人たちの地位の高いことを指摘している。
欧米で物姿が大好評を持って迎えられ、原節子は一躍世界的スターに上り詰めた。だが、20代前半の人気絶頂の時に引退してしまった。この本では伝説の女優原節子の若き日々を堪能した。小津安二郎監督の作品に見える原節子の姿を改めて楽しむことにしたい。