勢古浩爾『定年後のリアル』(草思社文庫)ーー価値観は違うが、提言・結論には賛成。性格!

勢古浩爾『定年後のリアル』(草思社文庫)を読了。

先週帰省したおりに、友人の松尾哲君からすすめられた本。著者は 昭和22年生まれの団塊世代。2010年刊行の書籍が文庫化されたものだ。ユーモアあふれる筆致で、本音で語っており、文章がうまく、情報も豊富で、面白く読み終わった。 

 

著者の提言は、自分の生き方は「自分で考えよ」ということだ。

「だれかに自分の人生の「答え」を求めるようなことは、いい加減にやめにしましょう」「他人の空虚なワラよりも、自分のたしかな一本の糸のほうがよほど大切である」「万人に共通する「普遍的なリアル」など、存在しない」「結局、どういう人生の価値観を持つのか、ということに尽きるのではないかと思う」。

 著者の価値観は、等身大の自分のリアルを受け入れて、のほほんと生きていくことだ。

「充実した人生というインチキ言葉に負けない」「自由とはじつに金のかかる代物なのである」「ギラギラ生きるのではなく、ほんわか生きるの「ほんわか」がポイントである」「人の生き方を見るのが好きだ。だからといって、よしおれも、とならないのである」「ギラギラした生き方はわたしの性に合わない」。

 著者の結論は、「好きに生きよう」ということだ。それは性に合った生き方だ。

「性はその人の価値観の持ち方にも影響する」「一人ひとりには、その性に合った生き方がある」

さて、著書の性格からくる価値観は、励まし系の本を書く「自己啓発系」の私とは違うから、同じように生きることはないが、「自分で考えよ」という提言と、「好きに生きよう」という結論には賛同する。

この本を読んで、価値観、人生観、幸福論というのは、やはりその人の性格に大いに影響を受けている改めて思った。以下、「性格」に関する言葉を挙げてみよう。

団鬼六「運命は性格の中にある」。篠田 桃紅性格が一切です」。岡義武「性格は運命をつくる」。小林秀雄「人はその性格にふさわしい事件にしか出会わない」。 伊藤肇「性格がその人の運命である」。芥川龍之介「運は性格の中にある、という言葉はなおざりに生まれたものではない」。

やはり、性格は人の人生をかたちづくる基本ソフト(OS)である。 

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「名言との対話」8月10日。山田忠雄「問題とする語が有する雰囲気を、丁寧かつ詳細に説明することで、本義の核心に迫る」

山田 忠雄(やまだ ただお、1916年8月10日 - 1996年2月6日)は、日本国語学者辞書編纂者。

1936年東京帝国大学文学部国文科で学び、卒業後岩手県師範学校に赴任、在職中に『明解国語辞典』を見坊豪紀とともに編纂する。1943年に『明解国語辞典』が刊行される。1946年、日本大学文理学部国文学科助教授に就任し、教授となる。1959年に42歳で辞職し、文字通り学問一途の生涯を送った。1972年に出版された『新明解国語辞典』の編集主幹を務め、同じ出版社ながら見坊の『三省堂国語辞典』と袂を分かつ。山田は「問題とする語が有する雰囲気を、丁寧かつ詳細に説明することで、本義の核心に迫る」という方針を採用した。『新明国』は、従来の国語辞典の概念を超える「新鮮さ」と「鋭さ」と「面白さ」があった。

 大学の同期の見坊豪紀は、『明解国語辞典』(三省堂)の編纂に関わる。岩手大学教授、国立国語研究所で仕事をする。1960年、『三省堂国語辞典』(三省堂)を刊行。『三省堂国語辞典』は、「同時代語の辞書」という点で画期的であった。1972年山田忠雄と袂を分かつ。山田は『新明解』、見坊は『三国』を担うことになる。見坊は『三省堂国語辞典』初版刊行と同時に、現代日本語の実例を採集する作業をより本格化させた。見坊が重視したのは、現代語の変化を素早く映し出す「鏡」の側面であった。1968年、国語研究所を退職。以後、現代日本語の用例採集と辞書編集に専念した。採集カードは約145万枚に達した。

 この二人の関係と辞書の歴史を追った佐々木健一辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」 (文春文庫)という日本エッセイスト・クラブ賞受賞を受賞した本がある。

天才・見坊豪紀と鬼才・山田忠雄の訣別の謎を探った本である。「新明解」は独断とも思える語釈に満ち、「規範的」。「三国」は簡潔で「現代的」。そこには二人の言語観・辞書観が反映されている。
山田は「ごたごた」の用例として、「そんなことでごたごたして、結局、別れることになったんだと思います」と書いている。「ば」という語の用例を見坊は、「山田といえば、このごろあわないな」と個人名を使っている。二人は辞書内で会話をしているのだ。

「ば」という語の用例をケンボー先生は、こう記す。「山田といえば、このごろあわないな」。山田という個人名が使われている。一方、山田先生の辞書で、「ごたごた」の語例を引くと、「そんなことでごたごたして、結局、別れることになったんだと思います」。
「ば」という語の用例をケンボー先生は、こう記す。「山田といえば、このごろあわないな」。山田という個人名が使われている。一方、山田先生の辞書で、「ごたごた」の語例を引くと、「そんなことでごたごたして、結局、別れることになったんだと思います」

三浦しをん舟を編む」(光文社)を読んだことがある。15年という歳月を費やして辞書編集に携わった志ある人々の愛と友情と人生の豊かな物語だ。完成後。「俺たちは舟を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく舟を」。人間世界という大いなる海を棹さしていくのを助ける乗物が辞書である。

その舟を編むことをライフワークとしたこの二人のことに興味を持った。「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」を読むことにしよう。