多摩美大美術館「寺田小太郎 いのちの記録 コレクションよ、永遠に」展。

寺田小太郎、どこかで聞いた名前だと思ったら、東京初台の東京オペラシティのアートギャラリーで「寺田コレクション」の存在で知った名前だった。

寺田小太郎(1927-2018年)は、滋賀近江を出自とし、東京初台に500年続く家督を継いだ。新国立劇場建設に伴って行政が構想した文化施設の併設プランに賛同し、この都市開発にプロジェクトに参画する。

寺田は私有地を売却した資金を含む私財を投じて本格的な作品収集を開始する。そして開発プロジェクトの委員会に、唯一個人として参加する。そこでは収益中心のオフィスビルではなく、ビルに芸術性を持たせることを地権者として主張した。そして1999年の東京オペラシティーアートギャラリーの開館に貢献する。

f:id:k-hisatune:20210912162105j:image

多摩美大美術館は、「収集」の域を超えて芸術との関わりをみ、自らの志を波動として周囲に影響与えるような「コレクター」に着目している。コレクターのまなざしや個人のライフヒストリーを辿りながら「収集」という行為と、「社会におけるコレクター」の役割を再考するシリーズを始めた。今回はその2回目だ。とすると、第1回目は私も訪れた須藤一郎というコレクターの企画展だ。

寺田コレクションは総数約4500点に上る。戦後日本美術から日本現代アートに至るまで幅広い年代とジャンルにわたっている。

寺田小太郎は東京農業大学に学び、造園の仕事に就いている。造園という仕事は、景観の骨組みになる部分は最初にしっかり作っておいて、多様な花木類を、苗に近い幼樹を差し挟み、それらが時間の経過の中でどのような展開を示していくかをみながら、徐々に完成させていくという考え方だ。

集めて再編成することで一種の「世界(コスモロジー)」を創造する行為だ。ゆっくりと時間をかけて育んでいくのが造園である。

庭づくりと絵画収集に 挑んだ足立全康の島根の足立美術館俳優の大河内伝次郎の京都の大河内山荘を私もみてきたが、寺田も含めて、庭づくりは命をかけた創造の場であったのだ。

そして庭づくりの基本は、木でも石でも持ち込むのをまず置いてみる。木や石の声を聞けば、行きたいところへ行ってくれる。まさに自然に置かれるように据えるということである。

そういう意味では、最高の趣味であるといわれる庭づくりも、芸術のコレクションも同じ、時間をかけた創造行為なのである。

「日本とは何か」、そして「人間とは何か」を改めて根底から問い直すところから寺田の戦後は始まっ関心が広がっていった。

寺田のコレクションは最終的に「人間とは何か」と言う根源の問いを発している。収集作品の中で菅創吉の名前があった。この人は須藤一郎さんを目覚めさせた画家である。

寺田はキュレーター的な視点を備えたコレクターだった。「見る人にも考えてもらいたい」と語っていた。自分の考えに沿って、納得した上で購入すると言う収集の仕方だった。

寺田は自分の頭でよく考える人だったようだ。自分自身で読み、話を聞き、考え、判断し自分の考えとする。そういう独学を91歳の最後まで続けた人だった。柳田邦夫の「民俗学」の世界、渡辺京二の「近代」、レイチェルカーソンの「センスオブワンダー」、今西錦司の「私の進化論」など。

自伝「わが山河」で、学んだこと。

「近江泥棒と伊勢乞食」。近江商人商才にたけ、伊勢の人は勤倹に努めて、ともに商人として成功した者が多かったところから、「宵越しの金は持たない」と自負する江戸っ子が負け惜しみに言った言葉だ。

縄文中期は26万人弱、平安鎌倉期はほぼ600万人前後、江戸期に入って約3000万人

で静止。終戦直後は8000万人、現在は1億2000万人、、。

寺田は環境問題、食糧自給率問題、などに問題意識があった。「私に最も近しい存在であり、万葉に多摩の横山とうたわれた多摩丘陵も削られてやがて山容が改まるまでになった。この丘陵を己の血肉のことを感じてるだった私は、我が身がさいなまれるように感じ、この国はもうダメかもしれないと思った」。

コレクションという行為についての考えを聞こう。

「財産を残してもとても虚しい感じがするのです。自分の生きた証として何を残すのか。最終的には芸術しかないと感じる」「財産として残すべきものは、芸術文化であり、コレクションである」。

「コレクションは造園と同じで、既存のものを集めたり組み合わせていくことで新しい世界を創り出していく。コレクションすると言うことも創造的な営みではないかと思います」

「私はコレクションを通して自分を表現したいのだと思います」「他の人が描いたものを集め、その塊に自分を反映しているということになったのです」

「このコレクションは、あくまで私個人の目と頭で作ったものですから、偏りの多いクセのあるものだと思います。しかしあるものそれが面白いのではと思っています」

絵画コレクションは、創造であり、「表現行為としての収集活動」なのである。

ーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」9月12日。加藤卓男「日本のやきものにペルシャという新しい血を導入して世界観に立つやきものを生み出そう」

加藤 卓男(かとう たくお、1917年9月12日 - 2005年1月11日)は、陶芸家。

岐阜県多治見市生まれ。原爆を受けて長く体調を崩している。1934年、多治見工業高校卒業後、京都国立陶器研究所陶芸科にて研修を受ける。

1961年、フィンランド工芸美術学校修了。現地で「史上最高の芸術ペルシャ陶器は途絶えている」という話を聞いてこの再現を決意した。1973年、イラン・パーレヴィ王立大学付属アジア研究所留学およびペルシア古陶発掘調査に参加している。

加藤卓男は古代ペルシア陶器の斬新な色彩や独創的な造形、釉調に魅力を感じ、西アジアでの長年の発掘研究を経て、滅び去った幻の名陶「ラスター彩」の復元をはじめ、青釉、三彩、ペルシア色絵など、高い芸術性を持つ異民族の文化と日本文化との融合に成功した。

一方、国内では1980年に宮内庁正倉院より正倉院三彩の復元制作を委嘱され、約9年の研究の末、「三彩鼓胴」「二彩鉢」を納入している。

学術および芸術文化に寄与した功績により、1995年に国指定重要無形文化財保持者(人間国宝) に認定された。

加藤卓男は、20年近くに及ぶ試行錯誤の末、長年の謎だったペルシャ・ラスター彩の製法を再現することに成功した。

ラスター彩とは何か。Lusterとは、きらめき、輝きを指す。光の角度によってやきものの表面がきらきらと七色の虹のように輝くオパール現象が出現するのだ。

見ながら描くのではなく、頭の中に像を刻み付ける。「松を描く時に、見て描いているようではまだだめだ。想像で描けるようにならなくては」、それが加藤の方法だった。

加藤はやきものという魅惑に満ちた世界の中に、「日本の心」を大きく加えて、新しい世界に踏み込んだ。日本の桃山時代織部西欧文化の血を取り込み新しい伝統をつくり上げた。加藤は「日本のやきものにペルシャという新しい血を導入して世界観に立つやきものを生み出そうとしたのである。