『お天道様は見てる 尾畠春夫の言葉』(白石あづさ著。文藝春秋社刊)ーースーパーボランティアの名言を聞こう

2018年、山口で行方不明だった2歳児を20分で発見し、時の人となった尾畠春夫さん。雑草を食べ、病気知らずで、5万5千円の年金暮らし、災害があれば日本国中どこでもすっ飛んでいく人だ。

この尾畠さんを3年にわたって徹底的にインタビューをして、仕上がった本を読んだ。1万枚撮った写真から選んだ素晴らしい笑顔のカラー写真と、80年を超える人生から絞り出した名言が響く。白石あづさという女性の書いた労作ともいえるこの本は実にいい本だ。

タイトルに使った「お天道様は見てる」は、尾畠さんの人生観を凝縮した言葉だ。私と同じ大分の方言を使ってしゃべっているから気持ちよく読めた。この人はとても「偉い人」だと思った。物事を自分で考える。人の言ってることのエキスだけを自分のものにしている。そしてそれを実行している。教養のある人だと言っても良い。

少年期はとび職などを経験、29歳からの青年期と壮年期は鮮魚店を切り盛りする。65歳の誕生日で店を閉め、実年期はボランティアの世界を疾走する。その動きは80代の熟年期に入っても緩まない。尾畠さんは働きながら、ライフデザインを心に秘めていて、それを断固実行したのが偉いと思う。人生100年時代のモデルの一人である。

「いいことをしてもズルイことをしても、お天道様は見とる」。「お天道様は見てる」、これは日本の心ではないか。いい本を読んだ。

以下、尾畠春夫さんの言葉から。

・本気で目指すんじゃったら、1本の線の上を、ずっともう永遠に歩きなさい。

・広ーく、浅ーく、天よりも高ーく、海よりも低ーく、いつでもどこでも五感を働かせて生きていけ。

・ワシの探したい人は、戦後75年経った今も暗いところで眠ちょる。沖縄では洞窟のことを我慢中んだけど、そこに何千人もね。お骨はきれいに洗って拭きあげて、県庁に持っていってあげたい。そうしたら元の方で、無縁仏でも戦没者の慰霊塔とかに葬るになり、ちゃんとしてくれると思うから。それが今の私の大きな夢なんです。

・人生を悔いなく終わらせようと思ったら、1分1秒が大事なんだわ。

・ワシは延命措置はしない。全身が全く動かなくなったら、自分で自分の人生を終わらせる。弘法大師は自分で死ぬ時を決めて、洞窟だか庵の中に1人で入っていったんだって。食べ物は一切持ち込まず、水だけ持ち込んで毎日毎日少しずつ飲んで、スーッとロウソクの火が消えるみたいに、全然、苦しまずに死んだっていうからな。自分もそうしようと決めちょるんよ。

語録。

「汗かく。恥かく。文字を書く」「赤とかオレンジの服を着れば元気が出る」「5万5千円の年金だけでも夢の生活だよ」「いざとなったら、どこの国も輸出してくれない」「目標、計画、実行する癖が夢への近道」「子供とタンポポを見る時間こそ必要なんよ」「自分の人生を他人に委ねない」「「だ」って言い切る人は、ほとんどいません」「人生には3つの坂がある」「蒔かない種は芽が出ないんよ」「前向きに生きれば、いつか笑顔になれる」「5億円の猫の絵よりも、生きている野良猫の方がずっと良い」「馬を見たら乗ってみろ、人に会ったら話してみろ」「政治家がダメなのは、選んだ国民が悪いよ」「戦争だけはしちゃいけん、本当に」「自分が神であり、仏である」。

ボランティア語録。

・世の為、人のためじゃない。自分のためにボランティアをしているんよ。

・現地を見ずに、現地を語るな。

・リーダーは、男より女性が良い。

・口が上手い人よりも、手を動かす人が好き。

・褒めて、褒められて、褒め返す。

・己に厳しく、人に優しく。

・もうちょっとできるところでやめるのが、ボランティアを続けるコツだから。

これらの言葉は、永年の人生の中で、出会った言葉で、納得して覚えた言葉も多いようだ。自宅には100枚ほどの格言が貼ってあるそうだ。人は名言の束である、と思う。

マザー・テレサがつくった修道会神の愛の宣教者会」が別府にある。すべてを無報酬で行なっているこの修道会の人々は修道院以外のところで食事をしない。水一杯ももらわない。それは貧しい人々への配慮だった。

行方不明の2歳児をわずか20分で発見して話題になった大分県日出町の尾畠春夫さんの態度と同じである。尾畠さんは別府の「光の園」と縁がある。この神の愛の宣教者会という修道会は大分県別府にもあるから、別府で鮮魚店をやっていた尾畠さんも、マザー・テレサの影響を受けていたのではないか。

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深呼吸学部。20時から13時前まで初めてフル参加。

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「名言との対話」9月18日。藤沢昭和 「まーるい緑の山手線  まんなか通るは中央線  新宿西口駅の前  カメラはヨドバシ カ・メ・ラ」

藤沢 昭和(ふじさわ てるかず、1935年(昭和10年)9月18日 - )は、日本の実業家。ヨドバシカメラ創業者。 

長野県富士見町生まれ。1949年頃から、父の良作が東京に出てカメラ関係の商売を始める。息子の藤沢昭和は1960年に東京・渋谷区本町で藤沢写真商会を創業。1967年に東京・新宿区淀橋に淀橋写真商会を設立し、1974年にヨドバシカメラに社名を変更。1989年4月に日本で最初ともいわれるバーコードを使った「ポイントカード」システムを開発して発行した。POSレジ導入時に、「利益をお客様に還元して喜んでいただこうと考えた」のだ。

2019年3月の売上高は6931億円、経常利益は573億円(経常利益率8.3%)、23店舗を展開し、従業員数は5000人となる。2021年3月期の売上高は7,318億円、経常利益は493億円とコロナ禍でも好調だ。

藤沢昭和は2020年7月1日付けでヨドバシカメラの社長を息子に譲り、代表権のある会長に就任した。持ち株会社ヨドバシホールディングスの社長は引き続き務めている。

1979年代に「新宿カメラ戦争」という言葉があった、九州のカメラチェーン「ドイ」が、新宿西口に出店し、ヨドバシカメラに戦いを挑んだのだ。互いに価格を密かに調査し安売り合戦となった。ヨドバシは「さくらや」の牙城だった東口にも出店し、新宿を戦場に競い合ったのである。マスコミも面白おかしく取り上げ、新宿は安売りカメラのメッカとなった。勝敗はヨドバシの勝利に終わっている。

2000年代の私の仙台時代には駅前にヨドバシがあり、よく通った。ヨドバシは旧国鉄用地の駅前の一等地に大型店を造っていた。仙台でラオックスが大きなビルで登場したとき、ヨドバシは危機だとうわさをしており、ヨドバシは負けるだろうとのうわさだった。ところがその数年後には、ラオックスの方が敗れて撤退してしまう。ヨドバシの社員は業務知識が豊富で、その武器が危機を救ったのだ。大したものだと私も思ったことがある。

日経ビジネスのインタビューでは、主要都市の駅前一等地に大型の自社店舗を構え、「持つ経営」で成長を続けてきたと紹介されている。「自分の地べたの上で商売をしたい。自分の地べたの上だったらもうかっても、もうからなくても追い出されることはない。先を見て商売をしているから、自分で持っていたほうがいいのは明白だ」と「持つ経営」を語っている。