森鴎外の「あきらめの哲学」

吉野俊彦『鴎外語録』(大和出版)の2回目。

「あきらめの哲学ーー40代の男の生き方」から。

 

鴎外が書いた本文は名文である。その真意は吉野が訳した意訳で了解できるのだが、抜き書きは鴎外の文章にすることにした。令和を生きている私には明治の鴎外のような学識はないし、漢字も拾えないが、鴎外自身が述べる心情を理解するのには原文の方がしっくりくる気がする。妹、母、友人に出した書簡や、友人のために書いた序文などにも聞くべき言葉がある。

  • 若しそのひと余力あり、その公余の業士人の所為恥じざるものあるとき、尚そを悪しざまに言ふものあらば、おのれは言ふものの本意故らに余力あるものを中傷するにありとなさん。(「心頭語」)
  • 凡そ人生のき欲、文芸詞芸より淡なるはなし。さればこそ古の武夫の国風を好めるもの、我には許せと曰ひ、人亦これに許して塁となさざりしなれ。、、その単に文章ありといふ以て罪を獲るものは、今の世に始まる。(「心頭語」)
  • 予は実に副はざる名誉を博して幸福とするものではない。(「鴎外漁史とは誰ぞ」)
  • いかなる境界にありても平気にて、出来る丈の事は決して廃せず、一日は一日丈進み行くやう心掛くるときは、心も穏になり申者に候。小生なども其積にて、日々勉学いたし候。(喜美子は妹。「小金井喜美子宛書簡」)
  • 小生なども我は有力の人物なり。然るにてきせられ居るを苦にせず屈せぬは、忠義なる菅公が君を怨まぬと同じく、名誉なりと思はば思はるべく候。(峰子は母。「森峰子宛鴎外書簡」)
  • 人の歌の生涯も、進むときがある。低回してゐるときがある。退くときがある。然其人が凡庸でない限は、低回しても退いても、丁度鵞鳥が翼をおさめて、更に高く遠く蜚ぶ支度をするやうなもので、又大いに進むのである。(「與謝野寛著相聞への序」)
  • 私の心持を何といふ詞で言ひあらわしたら好いかと云うと、Resignationだと云って宜しいやうです。(「あきらめの哲学」と吉野は訳した。「予が立場」)

resignationを辞書で引くと、放棄、服従、甘受、覚悟、諦め、観念という訳がでてくる。運命を甘受し、覚悟を決めて、諦めて生きていこう、という心持だったと理解しよう。「諦め」を吉野俊彦は「あきらめ」とひらがなにしている。漢字で表すよりも明るい感じがある。この点はもっと深掘りしてみたい。

次は鴎外の50代の言葉を拾うつもり。

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朝:ヨガ1時間。

午後:iphone13proを購入。

夜:ZOOMでの深呼吸学部の時間。

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「名言との対話」。10月9日。高英男「雪の降る町を 雪の降る町を、、」

高 英男(こう ひでお、本名:吉田 英男、1918年10月9日 - 2009年5月4日)は、樺太(現・サハリン)出身の日本の歌手、俳優。

芸名の高は、王子製紙創立者の一人だった実家の姓だ。樺太で11歳まで育つ。東京では、武蔵野音楽学校を経て日大へ転学し、タンゴのバンドを組む。

戦後、NHKオーディションに合格。24年初リサイタル。26年パリのソルボンヌ大学に留学し、27年帰国。28年画家・中原淳一が訳詞した「枯葉」でレコードデビュー。日本初の男性シャンソン歌手といわれ、叙情歌「雪の降る町を」など大ヒットした。

画家でファッションデザイナーの大御所であった中原淳一の妻との縁で中原と知り合う。中原は「メイクを教える時、そのグループの中で、ほっそりと面長の青年に前に出てもらった。痩せた精気のないこの青年の顔が、(略)おとぎの国の王子に変身する」と出会いを語っている。

「それいゆ」や「ひまわり」という少女雑誌で活躍する中原は高英男の顔をキャンバスとして自由に化粧を施したのだ。中原の絵は2013年の昭和館での展覧会や、別冊太陽の中原の特集でよく知っているが、高英男の不思議な印象の源を初めて知った。中原淳一に目をかけられ、「シャンソン歌手第一号」となる。男性宝塚を意識した舞台化粧も中原の提案だった。

留学や仕事でパリとは縁が深く、日本とフランスで活躍した。日本のシャンソン音楽普及の第一人者である。フランスでも活躍。独自のムードを醸し出す歌手・俳優として知られた。 1953年から1961年までで、紅白歌合戦には7回出場している。

1952年のレコードの「枯葉」、「ロマンス」、1954年の「雪の降る町を」を聞いてみた。高音の澄んだ声で、語るように歌う。「枯葉」の訳詩は中原淳一だった。

生涯に約4000回のワンマンショーを行い、2007年までパリ祭に出演、2008年の末までステージに立つなど、最晩年まで活動を続けている。高英男は随分と昔の歌手だと思っていたが、生きていれば102歳になる。最近まで歌っていたのだ。病気が多かったのだが、90歳で亡くなるまで歌い続けた、永六輔は「歌が命を支えている」という至言を残している。

「ゆうきの ふる まちをー、ゆうきの ふる まちを、、」という高英男の歌声は私の耳にまだ残っている。歌の命は長い。歌を歌った人の命もまた長い。