『鷗外語録』からの3回目ーー永遠なる不平家。師はいたが主はいない。アフターファイブの時間割

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『鷗外語録』から3。「豊熟の時代」。50代前半。以下、共感するところ。

  • かなとこに身をはおきてん 槌揮う 汝が手力のおとろふまで        打ツモノハ、イツマデモさいづちナリ。打タルルモノハ、或は名刀トナルベシト自ラ彊ウス。(「賀古鶴所宛鴎外書簡」)
  • 役所から帰って来た時にはへとへとになってゐる。人は晩酌でもして愉快に翌朝まで寝るのであろう。それを僕はランプを細くして置いて、直ぐ起きる覚悟をして一寸寝る。十二時に目を醒ます。頭が少し回復してゐる。それから二時まで起きてゐる。(「追難?」)
  • 併し僕が口訳をするといふには、よその著述家と違って、自分で筆を持って訳する丈の時間が得られないのだから仕方がない。(?)
  • 公事果てて、同じ道を家に帰り、沐浴し、夕餉たうべて、文机にいむかふは、火ともし頃なり。是れ我が日ごとの業なり。かくて此点燈後しばしが程の時間こそは、我が為めにいと貴きものなれ。新なる書読むも此時なり。物書かんとて思を構ふるも此時なり。(「改訂水沫集序」)
  • 実は私自身ではまだ何一つ成功してゐるとは思はない。勿論今も何か成功しようとは心掛けてゐる。今からだと思ってゐる。それも空想に終るかも知れない。只ださう思ってゐる丈は事実である。(「私が十四歳の時」)
  • 足ることを知るといふことが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。(「妄想」)
  • 帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの跡に附いて行かふとは思はなかった。多くの師には逢ったが、一人の主には逢はなかったのである。(「妄想」)
  • 諸余小技見人嗤(私は長いこと、本職の余暇に、いろいろ文学活動もやってきたが、それをほめてくれる人はいなかった。(「?」)
  • 朱丹手磨研 閒房有至楽 足以送暮年(森林太郎拝草)

 

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「名言との対話」10月11日。アート・ブレイキー「オレは黒人だぞ。一緒に写真に収まってもいいのか?」

アート・ブレイキー(Art Blakey、1919年10月11日 - 1990年10月16日)は、アメリカ合衆国ジャズドラマー

ブラシでの寄り添うようなプレイから激しく煽る「ナイアガラ・ロール」までの幅の広さが特徴的なドラミング奏法で知られ、ジャズ界に多大な影響を与えた。

1940年代後半からマイルス・デイオヴィスらと共演。1954年からジャズ・メッセンジャーを結成した。メンバーを入れ替えて「モーニン」が大ヒットする。ジャズ・メッセンジャーズのリーダーとして、様々なアルバムやコンサート等で活躍する。新人の発掘にも功績があった。

初来日以降、亡くなる直前まで何度も来日し、公演を行っている。日本公演では、日本人のジョージ川口らをジャズミュージシャンをゲストとして呼び込んでドラム合戦をしたり、ときには自分のバンドのレギュラーメンバーに加えることもあった。

4度結婚している。1人は日本人で、その子どもに「akashi」、「Kenji」、「Akira」という日本名をつけている。日本酒のファンでもあった。

また演奏している楽曲の中には、「Kyoto(京都)」「Ugetsu(雨月)」「On The Ginza(オン・ザ・ギンザ)」など、日本語のタイトルが付けられた楽曲もある。

2006年から始まったNHK美の壺」では、歴史的傑作「モーニン」がテーマ曲に使われている。アートブレキーの演奏するドラムの動画をいくつか見てみた。この軽やかな名曲は、「美の壺」のファンである私の耳に残っている。

1961年の初来日時、あるファンから記念写真を頼まれ驚く。アメリカではそういうことはなかった。「オレは黒人だぞ。一緒に写真に収まってもいいのか?」と問い、「そんなこと知ってます。ぜひ一緒に」といわれ、喜んで写真におさまった。

「私は今まで世界を旅してきたが、日本ほど私の心に強い印象を残してくれた国はない。それは演奏を聴く態度は勿論、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれたことだ。人間として! ヒューマンビーイングとして!」と語っている。

アメリカでも黒人差別が激しかった頃であり、アート・ブレイキーは一気に親日家になった。71歳で死去。