「小早川秋聲」展。「最澄と天台宗のすべて」展。知研セミナーの試行を始める。

都心に出る用事があり、合間に美術館と博物館を訪問。内容は別途記述の予定。

東京駅。東京ステーションギャラリーの「小早川秋聲」展。

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上野の東京博物館の「最澄天台宗のすべて」展。

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夜:知研セミナー:猪俣さんの「憲法改正」がテーマ。10数人が集合。憲法論議に花が咲いた。来月は小野さんの「みんなで本を書こう」。「共著の技術」というサブタイトルをつけたらどうかな。

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終了後、知研幹部会に参加。

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「名言との対話」10月15日。米山稔「 天はチャンスを与えるときに、必ずピンチを添えて与える」

米山 稔(よねやま みのる、1924年10月15日 - 2019年11月11日)は、日本の実業家。スポーツ用品メーカーのヨネックス株式会社創業者。

新潟県長岡市生まれ。沖縄戦線に派兵された。慶良間諸島渡嘉敷島で激しい戦闘を体験して生き延びて捕虜生活を送る。

米山製作所(現ヨネックス)を設立し、漁網用の浮きなど木製品の製造販売を開始。バドミントンラケットの生産に転じ、新素材の導入や海外市場戦略で、バドミントンやテニスのラケットを世界のトップブランドにそ育て、ゴルフ用品にも進出した。この間、ピンチの連続の連続であった。

『ネックス米山稔 負けてたまるか』(日経ビジネス人文庫)を読んだ。

ヨネックスは、情報力、技術力、そして新素材研究を重視している。素材研究と技術開発を行い、常に新しい素材を研究していいなとライバルにすぐに追い抜かれる。

ヨネックスは、バドミントン・ラケット、テニス・ラケット、ゴルフクラブと成功を重ねており、ランニングシューズ、スケボー、、、、と挑戦は続いている。米山によれば「20世紀は、石油と自動車とスポーツの世紀」だそうだ。我田引水の感じもするが、メディアの発達も急速であったから、そうかも知れない。

世界のバドミントンんのレジェンドになっていたインドネシアのルディ・ハルトノをラケットを改良することで応援し、全英オープン選手権7連覇を果たした。現在ではヨネックスは世界のバドミントン界で圧倒的な支持とシェアを誇っている。

テニスでは「頂上作戦」を敢行。キング夫人。マルチナ・ナブラチロワ伊達公子マルチナ・ヒンギスセレシュ大坂なおみ、などトッププレイヤーの信頼を得ている。そしてゴルフでは、父が同姓同名の米山みどりを応援している。

「獨征」という額を自宅に飾っている。ひとりゆく、と読む。小学校の恩師から贈ってもらったものだ。「どんなことでも良いから日本一になれ」と、志の大切さを教えてくれた。人間は独りに徹するとき、最も強く生きられるという趣旨だ。

経営哲学は「ピンチはチャンス」である。ピンチに見舞われるたびに、独自の製品をひねりだし、チャンスに変えていく。米山は「創造」の人である。

以下、挑戦と挫折のくり返しから絞り出した言葉をみよう。

「辛くて辛くてどうしようもないときに、救いの手をさしのべてくれる書物に出会い、吸い込まれるようにして読み切り、そこから光明を見いだした経験を持つ人は、読書に楽しみ以上の何かを求めるようになる。そうなると、読書は人生、経営の道標になってくる」。

「繁栄は滅亡の前触れであり、ピンチは繁栄へのチャンスである」

「転んでも、そのたびにひと回り大きくなって起きあがる。それをモットーにした私には「越後の雪だるま」というあだ名がついた」。

この本には海外のメーカーの社長や、トップアスリートと楽しそうに、親しそうに写っている写真が多い。小柄だが、満面の笑顔で愛嬌があり、活力に満ち溢れた感じがする。

世界的スポーツブランド「ヨネックス」を育てた男、「負けてたまる」がモットーの米山稔は天寿を全うした。享年95。