白寿で亡くなった瀬戸内寂聴さんを偲ぶーー「愛し、書き、祈った」

瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。享年99。2022年5月15日には100歳の誕生日を迎えることになるがわずかに届かなかった。宇野千代と同じ99の白寿です。

東京女子大学国語専攻部卒業。代表作には『夏の終り』や『花に問え』『場所』など多数。新潮同人雑誌賞、女流文学賞谷崎潤一郎賞野間文芸賞などを受賞している。1997年文化功労者、2006年文化勲章。 

『寂聴 九十七歳の遺言』(朝日選書)を読んだ。500冊近くの本を刊行している。89歳のインタビューを聞いていたら、作品は、「300か、400近いわね」と言っていたから、この10年で100から200冊になっている。怒涛の仕事量だ。どこまで積み上がっていくのだろうか。見ものである。

「百冊の本を読むよりも、一度の真剣な恋愛の方が、はるかに人間の心を、人生を豊かにします」「4歳年下の作家、井上光晴と8年間の不倫は43歳から51歳まで。

出家することは生きながら死ぬ事。井上光晴の娘について「井上荒野(あれの)の方がずっと才能があります」と語っている。荒野は「切羽へ」での直木賞をとっている作家だ。出家は、4つ年下の井上光晴との関係の清算が動機だったという説がある。5月15日は井上光晴生まれた日であるが、実は寂聴の誕生日でもある。二人は同日生まれだ。これも小説的だ。

「男は代えれば代えるるほど悪くなる」「何が一番嬉しいかと考えたら、やはり自分の本が世にでることなんです」「発見する。もっと違うことが書けるかもしれない」「私なんか、ではなく、私こそ」「百歳近くになってもやはり人間は変わる」「書くことが生きること」。

  日本経済新聞に毎週連載していた「奇縁まんだら」という読み物があった。瀬戸内寂聴の筆になる著名作家たちとの交友録で、意外で面白い人間的なエピソードが込められており、読むのを楽しみにしていた。この好評連載が一冊の本になっている。
21人の登場人物のうち一人を除いて全員が寂聴よりも年上でそれぞれが文壇の大家たちだ。1872年生まれの島崎藤村から1923年生まれの遠藤周作までである。順番に並べてみると、島崎藤村正宗白鳥川端康成三島由紀夫谷崎潤一郎佐藤春夫舟橋聖一丹羽文雄稲垣足穂宇野千代今東光松本清張河盛好蔵荒畑寒村岡本太郎壇一雄平林たい子平野謙遠藤周作水上勉。それぞれが一家をなす歴史的人物といってもよい人たちだ。
当時86歳の寂聴は、長かった茫々の歳月で愉しかったことは人との出逢いとおびただしい縁だったと述懐している。長く生きた余徳は、それらの人々の生の肉声を聞き、かざらない表情をじかに見たことだっという。先にあげた作家たちにこの言葉を当てはめるとそれは愉しい人生だっただろと深く納得する。
寂聴は、毎回それぞれの人物の業績、その人と自分との縁、創作の秘密、そして自分の人生行路を重ね合わせながらユーモアたっぷりに健筆をふるっている。また美男の作家たちの容姿をややミーハー的に活写したり、女流作家についても赤裸々にその行状を書くなど、またそれぞれの運命的な、あるいは濃密な男女関係をあたたかい目で観察していて、読んでいて豊かな気分にさせてくれる。

たとえば「惚れ惚れするような美男ぶりであった。鼻筋が通って、、、、、白鶴のような、すがすがしい姿であった。そこだけ涼しい風が吹いているよに見えた」は島崎藤村の描写である。「小説家というより、現役の女優のように見えた。、、まわりには虹色のオーラが輝き、どの作家たちよりも美しく存在感があった」。

豊かな恋愛体験の中でどなたが一番お好きでしたかという問いに、「尾崎士郎!、二番目も、三番目も四番目も尾崎士郎!」と言ったのは、宇野千代だ。
これほどの人たちとの親交がなぜできたのだろうか。人懐っこい性格、機敏な駆動力、世話好き、そして本人の言うように美人でないことが警戒心を解き、幸いしたのだろう。また初対面の人には手相を観ることで一気に相手の懐に飛び込んでいくという若いころからの手練も中で明らかにしている。
寂聴は、娘時代に藤村を見て小説家を志し、28歳で小説家になることを決心し、35歳で最初の小さな賞をもらっている。それぞれの節目には必ず、この本であげた作家たちとの縁がある。
寂聴は、大作家たちとの交友、旅行などを楽しみながら、同業の先輩たちの創作の方法や秘密を鋭く観察している。松本清張の講演の見事さは口述筆記の訓練によるものだった。舟橋聖一は63歳で書いた「好きな女の胸飾り」以降、すべての作品は、口述筆記になった。岡本かの子の作品は、夫の一平や同居者の手が入っている。その子の岡本太郎は、書斎を獣のように歩き廻りながら言葉を発し、養女の敏子がペンで口述筆記し、できあがった作品は敏子の名文で整えられ、わかり易く、高尚になっていく。それは合作といってよかったと書いている。そして絵もこの敏子との合作だった様子がわかる。これは岡本家の芸術造りの方法だったという観察である。
51歳で出家のお願いに行ったときの今東光とのやりとりもすさまじい。「頭はどうする?」「剃ります」「下半身はどうする?」「断ちます」それだけであった。今東光からもらった寂聴という法名は「出離者は寂なるか梵音(ぼんのん)を聴く」という意味だそうだ。
寂聴の書くものは、常に人物がその対象になっているようだ。興味ある人物を調べ、取材し、それを評伝という客観的な形ではなく、作者の想像と創造が許される小説という形式に仕上げていく。これが瀬戸内寂聴の小説造りの方法だということもわかった。
自分を中心に縁のあった大きな人物たちが幾重にも取り囲んでいる姿が寂聴の頭の中にあり、それは「まんだら」であり、この本のタイトルとなった。この本を読み切ったあとに感じるのは「奇縁まんだら」というタイトルそのものの内容であるということだ。横尾忠則の人物絵も楽しめる。
「続」は、2008年の1月12日から12月28日にわたって連載されたエッセイをまとめたものだ。前作は、島崎藤村川端康成、三島由起夫、谷崎潤一郎宇野千代松本清張遠藤周作、、と絢爛豪華だったが、「続」は時代が少し下がっていて、そういう意味では私にも馴染みがある作家たちが並んでいる。寂聴より年上の人が多いが、年下もいる。そして全員がすでに鬼籍に入っている。その人たちを米寿を迎えた寂聴が愛情を持って描いて赤裸々に描いている。

各人の紹介では、必ず生年と没年と、享年が書かれている。また本文でも寂聴との上下の年齢差が記してあり、寂聴の立ち位置がわかる。また、それぞれの前作で異常な人気を博した横尾忠則肖像画に加え、墓の写真と霊園の名前と場所が記されているなど、編集の統一がとれている。

この本は人物論の一種であるが、書き出しもうまい。

「正月になると思いだす人がいる。菊田一夫さんである」「開高健さんは、親しくなった頃からすでに肥っていた」「城夏子--何だか宝塚のスターのようなロマンチックで、オトメチックな名を覚えたのは早かった」「柴田錬三郎さんは誰もフルネームで呼ぶ人はいなかった。「シバレン」で天下に通っていた」「江国さんは、、、、。ほとんど笑顔など見せないので、老成した感じがした」 (江国先生とは、私のビジネスマン時代に何度かお会いしている。ある雰囲気のいい料理屋で見事な手品を見せてもらったことを思い出した)。「黒岩さんはハンサムだった」「島尾敏雄さんはハンサムだった」「一度何した女とは別れたあとも、旅の度土産物を届けることにしている」のは、菊田一夫。「残寒やこの俺がこの俺が癌」「おい癌め 酌み交わさうぜ秋の酒」と詠んだのは、江国滋。「ゆく春や身に幸せの割烹着」「蛍火や女の道をふみはづし」と詠んだのは、鈴木真砂女。「私と瀬戸内さんは男の趣味が同じなのね。、、」続いてCの話をして、Cに目下一番興味があると言った。その時、私はCとはそういう関係だったので、思いがけない不快さを感じた、と寂聴に書かせた大庭みな子。
「あんたのようなわがままな人と長くつきあえる人間はおれくらいのもんだ」と威張ったが、私の側にも言わせてもえらえば、同じ言葉になる。と寂聴に書かせた井上光晴

88年の歳月を必死に生きて、小説を書いて、多くの作家たちと交流した寂聴の自伝でもあり、文壇史でもある正と続のこの本は、人物論としても、文壇外史としても、一級のエンターテイメント性を備えている。多作な寂聴ではあるが、これは代表作として後世にも読まれ続ける息の長い本となるだろう。

25歳、娘を残し家出する。瀬戸内寂聴句集『ひとり』には、「子を捨てしわれに母の日喪のごとく」というすさまじい句がある。「人が生きるということは、命と同時にその人にのみに授けられた才能の芽を心をこめて育て、大輪の花を咲かせることにつきると思います」「人間って守りに入った瞬間から年をとるんじゃないかしら」などの名言もある。

 岩手に用意してある墓には 「愛し、書き、祈った」と刻まれている。寂聴の長い波乱の生涯は、この短い一言に尽きているのだろう。執筆と並んで、講話を行い多くの女性に勇気と希望を与えたことも素晴らしい。瀬戸内寂聴は100歳の百寿者、センテナリアンにはわずかに届かなった。

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以下、寂聴に関する記述。

  • 「続」は、2008年の1月12日から12月28日にわたって連載されたエッセイをまとめあもので、円地文子萩原葉子島尾敏雄の3人の分は、あらたに書き下ろしたものだそうだ。そういえば、他の人の文章はほとんど記億にあったが、この3人の文章は初めて読んだ。
    前作は、島崎藤村川端康成、三島由起夫、谷崎潤一郎宇野千代松本清張遠藤周作、、と絢爛豪華だったが、今回は時代が少し下がっていて、そういう意味では馴染みがある作家たちが並んでいる。寂聴より年上の人が多いが、年下もいる。そして全員がすでに鬼籍に入っている。その人たちを米寿を迎えた寂聴が愛情を持って描いて赤裸々に描いている。菊田一夫(65歳)、開高健(58歳)、城夏子(92歳)、柴田練三郎(61歳)、草野心平(85歳)、湯浅芳子(93歳)、円地文子(81歳)、久保田万太郎(73歳)木山しょう平(64歳)、江国滋(62歳)、黒岩重吾(79歳)、有吉佐和子(53歳)、武田泰淳(64歳)、高見順(58歳)、藤原義江(51歳)、福田恒存(82歳)、中上健次(46歳)、淡谷のり子(92歳)、野間宏(75歳)、フランソアーズ・サガン(69歳)、森茉莉(84歳)、萩原葉子(84歳)、永井龍男(86歳)、鈴木真砂女(96歳)、大庭みな子(76歳)、島尾敏雄(69歳)、井上光晴(66歳)、小田仁三郎68歳)。各人の紹介では、必ず生年と没年と、享年が書かれている。また本文でも寂聴との上下の年齢差が記してあり、寂聴の立ち位置がわかる。また、それぞれの前作で異常な人気を博した横尾忠則肖像画に加え、墓の写真と霊園の名前と場所が記されているなど、編集の統一がとれている。森茉莉森鴎外の長女であり、萩原葉子萩原朔太郎の長女。そして小田二三郎は、寂聴の同棲の相手である。湯浅芳子レズビアンの先駆者。この本は人物論の一種であるが、書き出しもうまい。「正月になると思いだす人がいる。菊田一夫さんである。」「開高健さんは、親しくなった頃からすでに肥っていた。」「城夏子--何だか宝塚のスターのようなロマンチックで、オトメチックな名を覚えたのは早かった。」「柴田錬三郎さんは誰もフルネームで呼ぶ人はいなかった。「シバレン」で天下に通っていた。」「江国さんは、、、、。ほとんど笑顔など見せないので、老成した感じがした。」 (江国先生とは、私のビジネスマン時代に何度かお会いしている。ある雰囲気のいい料理屋で見事な手品を見せてもらったことを思い出した)。「黒岩さんはハンサムだった。」「島尾敏雄さんはハンサムだった。」「一度何した女とは別れたあとも、旅の度土産物を届けることにしている」」のは、菊田一夫。「残寒やこの俺がこの俺が癌」「おい癌め 酌み交わさうぜ秋の酒」と詠んだのは、江国滋。「ゆく春や身に幸せの割烹着」「蛍火や女の道をふみはづし」と詠んだのは、鈴木真砂女。「私と瀬戸内さんは男の趣味が同じなのね。、、」続いてCの話をして、Cに目下一番興味があると言った。その時、私はCとはそういう関係だたtので、思いがけない不快さを感じた。と寂聴に書かせた大庭みな子。「あんたのようなわがままな人と長くつきあえる人間はおれくらいのもんだ」と威張ったが、私の側にも言わせてもえらえば、同じ言葉になる。と寂聴に書かせた井上光晴。寂聴自身のこともいろいろとわかる。4歳の子供を夫の許において家を出た。出家した翌よく年、クモ膜下出血で、左半身が麻痺して、言葉がロレったことがあった。88年の歳月を必死に生きて、小説を書いて、多くの作家たちと交流した寂聴の自伝でもあり、文壇史でもある正と続のこの本は、人物論としても、文壇外史としても、一級のエンターテイメント性を備えている。多作な寂聴ではあるが、これは代表作として後世にも読まれ続ける息の長い本となるだろう。

2008-07-24 「奇縁まんだら」(瀬戸内寂聴)--仏となった作家たちとの奇縁

 

  • 日本経済新聞に毎週連載していた「奇縁まんだら」という読み物がある。瀬戸内寂聴の筆になる著名作家たちとの交友録で、意外で面白い人間的なエピソードが込められており、読むのを楽しみにしている。この好評連載が一冊の本になった。20007年分だが、今年の分は来年に後編として出版される。
    21人の登場人物のうち一人を除いて全員が寂聴よりも年上でそれぞれが文壇の大家たちだ。1872年生まれの島崎藤村から1923年生まれの遠藤周作までである。順番に並べてみると、島崎藤村正宗白鳥川端康成三島由紀夫谷崎潤一郎佐藤春夫舟橋聖一丹羽文雄稲垣足穂宇野千代今東光松本清張河盛好蔵、里見恕s、荒畑寒村岡本太郎壇一雄平林たい子平野謙遠藤周作水上勉。それぞれが一家をなす歴史的人物といってもよい人たちだ。
    この連載を引き受けるにあって寂聴は、文芸年鑑に載っている作家たちを調べ、口をきいたことがある人の数は400人に達したことを確認している。そのうちから40人強の人を選び一人につき二週にわたってその交友録を書いている。
    1922年生まれだから今年で86歳の寂聴は、長かった茫々の歳月で愉しかったことは人との出逢いとおびただしい縁だったと述懐している。長く生きた余徳は、それらの人々の生の肉声を聞き、かざらない表情をじかに見たことだたっという。先にあげた作家たちにこの言葉を当てはめるとそれは愉しい人生だっただろと深く納得する。
    寂聴は、毎回それぞれの人物の業績、その人と自分との縁、創作の秘密、そして自分の人生行路を重ね合わせながらユーモアたっぷりに健筆をふるっている。また女流作家でもあり、美男の作家たちの容姿をややミーハー的に活写したり、女流作家についても赤裸々にその行状を書くなど、またそれぞれの運命的な、あるいは濃密な男女関係をあたたかい目で観察していて、読んでいて豊かな気分にさせてくれる。たとえば「惚れ惚れするような美男ぶりであった。鼻筋が通って、、、、、白鶴のような、すがすがしい姿であった。そこだけ涼しい風が吹いているよに見えた」は島崎藤村の描写である。「小説家というより、現役の女優のように見えた。、、まわりには虹色のオーラが輝き、どの作家たちよりも美しく存在感があった」、豊かな恋愛体験の中でどなたが一番お好きでしたかという問いに、「尾崎士郎!、二番目も、三番目も四番目も尾崎士郎!」と言ったのは、宇野千代だ。
    これほどの人たちとの親交がなぜできたのだろうか。人懐っこい性格、機敏な駆動力、世話好き、そして本人の言うように美人でないことが警戒心を解き、幸いしたのだろう。また初対面の人には手相を観ることで一気に相手の懐に飛び込んでいくという若いころからの手練も中で明らかにしている。
    寂聴は、娘時代に藤村を見て小説家を志し、28歳で小説家になることを決心し、35歳で最初の小さな賞をもらっている。それぞれの節目には必ず、この本であげた作家たちとの縁がある。
    寂聴は、大作家たちとの交友、旅行などを楽しみながら、同業の先輩たちの創作の方法や秘密を鋭く観察している。松本清張の講演の見事さは口述筆記の訓練によるものだった。舟橋聖一は63歳で書いた「好きな女の胸飾り」以降、すべての作品は、口述筆記になった。岡本かの子の作品は、夫の一平や同居者の手が入っている。その子の岡本太郎は、書斎を獣のように歩き廻りながら言葉を発し、養女の敏子がペンで口述筆記し、できあがった作品は敏子の名文で整えられ、わかり易く、高尚になっていく。それは合作といってよかったと書いている。そして絵もこの敏子との合作だった様子がわかる。これは岡本家の芸術造りの方法だったという観察である。
    51歳で出家のお願いに行ったときの今東光とのやりとりもすさまじい。「頭はどうする?」「剃ります」下半身はどうする?」「断ちます」それだけであった。
    今東光からもらった寂聴という法名は「出離者は寂なるか梵音(ぼんのん)を聴く」という意味だそうだ。
    寂聴の書くものは、常に人物がその対象になっているようだ。興味ある人物を調べ、取材し、それを評伝という客観的な形ではなく、作者の想像と創造が許される小説という形式に仕上げていく。これが瀬戸内寂聴の小説造りの方法だということもわかった。
    自分を中心に縁のあった大きな人物たちが幾重にも取り囲んでいる姿が寂聴の頭の中にあり、それは「まんだら」であり、この本のタイトルとなった。この本を読み切ったあとに感じるのは「奇縁まんだら」というタイトルそのものの内容であるということだ。横尾忠則の人物絵も楽しめる。
    人気連続テレビドラマ「家政婦は見た」に通じるところのある瀬戸内寂聴独特の表現が、興味をそそる面もある。連載中にかなり読んでいるつもりではあったが、改めて一冊の本として読み切るとそれぞれの仏たちが複雑に織りなす世界が総体として見えてくる。毎週の連載を楽しみながら、そして後編を読みたいと思う。

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「名言との対話」11月11日。養老孟司唯脳論の結論は、諸行無常と無我であり、お経と同じである」

養老 孟司(ようろう たけし、1937年11月11日 - )は、日本の医学者、解剖学者、東京大学教授。

神奈川県鎌倉市出身。2003年に出版された『バカの壁』(新潮新書)は419万部を記録し、戦後日本の歴代ベストセラー4位となっている。もちろん『バカの壁』は私も読んだし、勉強会でも先生に来ていただいて講演も聞いている。

この本は分かりやすかったのがベストセラーの要因だと思う。その秘密は、インタビューを受けて、それをライターが書いたからだということを発見したことがある。学者は研究者であって、解説者では必ずしもないということだ。

今回は2016年発刊の『養老孟司の人生論』(PHP)を読んだ。

東大医学部教授を定年の3年前に辞めている。感想は「人が変わった」だ。ずいぶんと幸せになったという。辞める前よりも忙しくなっている。「世間という、より大きな書物を読むために」デカルトは書斎を出たというエピソードを紹介している。同じ心境なのだろう。

やはり世代というものがある。先生は「戦争と全共闘運動の申し子」であった。助手になった2年目から東大紛争が始まり、大きな波をかぶった。今でも全共闘運動の総括はできていないそうだ。

学問は方法だと断言している。料理でいうなら「包丁の使い方」だ。この刃物であらゆる対象に使う。何でも口を出す。それは解剖という古典的な方法論に従っただけだ。頭の中に解剖図が浮かび、それに説明を加えているのである。『方法序説』を書いたデカルトと同じ方法主義者だ。この点は私も我が意を得たりである。図解コミュニケーションという方法、武器でずっとあらゆる対象を切ってきたからよくわかる。

「習慣は帝王である。それによってなし得ないことは、なにもない」(モンテーニュ)に先生は賛成する。習慣になるまでが大変だ、習慣になれば、努力も辛抱も根性もない、当たり前になる。先生は鎌倉から1時間半かけて東大に通い、その間、本を読み続けた。これも習慣である。習慣礼賛者の私も共感する。人間は習慣の束なのだ。

「自分がまだない」のだから、自分探しは意味がないという。この点も私と同じ考えだ。だからある年齢からは「自分づくり」をすべきなのだ。

社会科学は「世間学」と言い換えるべきだ、生きる意味を自分で考えることが「生きる」ということだ、などこの本に書いてある興味深い発言を楽しんだ。

代表作の一つである『唯脳論』の結論は、お経と同じであることを発見したという。それは「諸行無常」と「無我」である。諸行無常で自分は常に変わり続けているから自分というものはない、だから無我になる。西洋でいう自我などは存在しない。結局、原始仏教の思想を現代風に解説したことになるという総括をしている。

1937年まれの同年は、美空ひばり江利チエミ、小林千登勢などで、いずれも鬼籍に入っている。死ぬときには死ぬ、しかし65歳を過ぎてから本が売れるということもある。何歳になってもお終いじゃないということだ。世間も自分も常に移り変わっている。まさに諸行無常なのである。だから楽観主義者になるのである。この本を読んで、養老孟司先生の考えがよくわかった。