ピアノの日ーーピアノの生演奏とジャズの秋吉敏子。

江戸川区総合文化会館。ピアノの発表会を見に行きました。

未就学児、小学2年以下、小学6年以下、中学生、と年齢の低い層から順番に発表があり、そして最後にの極め付きはゲストであるプロのピア演奏という仕立てで醍醐味を味わいました。

ゲストの今田篤の独演、アドバイザーの梅田智也との連弾を聴きました。パンフレットが手もとになく、演奏に聴き入りました。絵画の鑑賞と同じく、経歴や解説から入るのではなく、アートそのものに集中するのはいいと思いました。この1990年生まれの二人は東京芸大の同級で、芸大の非常勤講師でした。

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江戸川区総合文化会館のイベントの掲示が興味深い。

橋幸夫コンサート 人生は長いようであっというま 夢をもって生きよう!」

細川たかし 長山洋子 ふたりのビッグショー

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今日のヒント。

  • 秋吉敏子(ピアニスト)。『エンドレス・ジャーニー』(祥伝社)「家でピアノを弾いて新しいことを探求できるのです。そんな今の状況は、私にとってはやはりラッキーだと思います」。(ラッキーとハッピーと幸福はどう違いのか?)
  • ザ・フィンランドデザイン展(Bunkamura ザ・ミュージアム)「幸せのかたちはここにある」(幸せのかたちとあるから見に行かなければ)

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「名言との対話」。12月12日。秋吉敏子「一つのことが好きで、やることが毎日あれば続くでしょう」

秋吉 敏子(あきよし としこ、: Toshiko Akiyoshi1929年12月12日- )は、ニューヨーク在住の日本ジャズピアニスト作曲家編曲家ビッグバンドリーダー。

満州遼陽生まれ。大分県別府市に引き揚げる。九州の駐留軍クラブでジャズ演奏。1956年1月バークリー音楽院に奨学生として渡米。73年にトシコ=タバキン・ビッグ・バンドを結成。74年発表の『孤軍』、76年の『インサイツ』などは、モダン・ジャズの金字塔として世界中で評価されている。1999年『国際ジャズ名声の殿堂(International Jazz Hall of Fame)』入り。N.Yを拠点に活動中の日本が誇る世界的ジャズ・アーティストである。

秋吉敏子『エンドレス・ジャーニー』(祥伝社)を読んだ。「音楽家という仕事は、終わらない旅をしているようなものだ」、という意味で今回読んだ本は『エンドレス・ジャーニー 終わりのない旅』というタイトルになっている。音楽だけでなく、人生100年時代に向けて心に響く金言が多い。

秋吉敏子は自身を「生まれたのは中国、母国は日本、仕事場はアメリカ」という。ジャズという分野でいくつもの顔を持っている。

ジャズピアの演奏家。いつまでも現役であるために、ピアノのキーは毎日押す、そして指が小さというハンディや、手術の後遺症を避けるため、練習の鍵盤は5割ほど重くして練習している。それが世界的ジャズピアノ演奏家の日常だ。

秋吉敏子はバンド・レーダーとしての顔も持っている。アキヨシ=タバキン・ビッグ・バンドである。有名になりたいジャズ・ミュージシャンはニューヨークにいく。スタジオ・ミュージシャンとして仕事をしたいひとはロサンジェルスにくる。ロスで結成したこのバンドでは、専門の管楽器だけでなく、すべての管楽器が演奏できる。だから色どり豊かなサウンドができるという特色を持っているので、人気がある。

作曲家としての秋吉敏子。自分の考えを「ジャズ語」で綴る。それが作曲である。才能ではなく辛抱。努力で生まれる。諦めない。時間で勝負する。こういう言葉を聞いていると、努力の人であるという印象を強く受ける。秋吉は依頼されて曲をつくるプロではないという。自分が考えたことしか曲にしないのである。それはアルチザン(職人)ではなく、アーチスト(芸術家)ということになる。

「ザ・ビレッジ」は日本民謡・木更津甚句をもとにしたオリジナル曲。自分のピアノ演奏の代表作。「ロング・イエロー・ロード」は、自身のテーマソングになっている。ブラック・イズ・ビューティフルに対抗し、イエロー(黄色人種)はメロー、つまり穏やかということにしたのだ。

代表曲は「ホープ」。9・11以降弾き続けている曲だ。「この世界から戦争がなくなるまでこの曲を弾き続ける」。これは「広島ーーそして終焉から」の最終楽章の曲である。

この本がでた2007年現在で72年となっているから長い長い音楽生活である。それを秋吉は、「音楽家という仕事は、終わらない旅をしているようなものです」と表現する。2年先のスケジュールが決まっているそうだ。そのために体調を整えることになる。それが長く音楽生活を続けている秘訣だろう。そういえば105歳まで活躍した日野原重明先生も数年先までスケジュールが決まっていたことを思い出した。

経済的に余裕ができて、「家でピアノを弾いて新しいことを探求できるのです。そんな今の状況は、私にとってはやはりラッキーだと思います」と語る。常に「新しいことを探求」しているのだ。「今日よりも明日、成長していたい」という気概が、エンドレス・ジャーニーのエネルギーなのだ。

ユーチューブ動画で、ストーリー「ジャズは私の人生」(2016年。毎日新聞)で秋吉敏子の言葉と演奏を聴いてみた。一つ一つ欠点を直していったという。その結果が日本人初の「ジャズ・マスター賞」につながる。

代官山でのミニコンサートのシーン。ここに参加した人の「CDにサインしてもらって感激した」という書き込みがあった。動画では事前にピアノを確かめて調律師を呼ぶように言っていた。朝の調律でもピアノは狂うのだろう。秋吉敏子は、人生のすべての学びはジャズからであり、ジャズ以外に自分の人生はないという。長く続けるのは難しいでしょうという質問には、「一つのことが好きで、やることが毎日あれば続くでしょう」と答えているのが印象に残った。やることが毎日あること、それが続く秘訣なのだ。