幸福論。幸せのカタチ。小さな幸せ。至福の時間。

今日のヒント「幸福」「幸せ」。

小椋佳「酒も小半(こなから)、欲望も小半にしておきましょう。それが幸福という状態だと思いましょうと。これは慢性現状不満症の僕の戒めを込めた幸福論です。」(小半は4分の1合。『文芸春秋』2022年1月号)

清水良典(文芸評論家)「自粛と緩和が繰り返される中で、重苦しい忍従の閉塞感慣らされてしまった我々の内部で、人間関係や幸福の概念が静かに変質しているように思われる。(日経2021年12月25日)

東京新聞12月25日。こちら特報部「幸せのカタチ」

コロナ禍は日常生活を大きく変えた。そんな中で市井の人たちはどんな幸せを望むのか。イブの東京を巡り、コロナ禍の幸福論を聞いてみた。(中山岳、木原育子)

  • 「私の幸せ?お金がたくさんたまることかな」(ガールズバー店員21歳)
    「趣味が合う人や職場の同僚たちなど仲間に恵まれていることが幸せ」(大阪市の警備業。46歳)
  • 「今の幸せは独りでも多くのリスナーから応援してもらうこと」(自撮りでネットで観光紹介のする派遣社員38歳)
  • 「自分と、ペットを含めて家族や身近な人たちが健康なことが幸せ」(主婦。47歳)
  • 「自分は何とか仕事をこなして減給もない。日々、心配事がない状態を幸せと言うのかな」(会社員男性52歳)
  • 「何が幸せって、生活が平穏無事に続くことじゃないの」(社長74歳)
  • 「やっぱり三食、食べられることが幸せでしょう」(経営者男性62歳)

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買い物途中で、通りがかりのUP LIFTのミニ公演を楽しみました。これも小さな幸せか。

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夜は深呼吸学部の今年最後の講義。

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赤田祐一。衣。中国。深呼吸新聞社。深呼吸マガジン。AIのべりすと。2022年。

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「名言との対話」12月25日。江藤淳「最後の最後まで仕事が続けられるように心がけ、そしてひと握りの理解者に囲まれて生を全うしたいものだ」

江藤 淳(えとう じゅん、1932年(昭和7年]12月25日 - 1999年(平成11年)7月21日)は日本の文芸評論家、東京工業大学慶應義塾大学教授等を歴任した。明治国家を理想とする正統的な保守派の論客として論壇で異彩を放つ。

江藤淳、この人の本は評価も高く読者も多いのだが、何十年作家家業をやっていても、自分の本を読者が読んでいる姿を見たことがなかったそうだ。ところが、山手線に乗って座ったら向い側の紳士が自分の最新刊(山本権兵衛を描いた「海は甦る」だったか)を熱心に読んでいる姿をみた。江藤は驚き、またその姿と表情ををじっと感動を持って眺め続けたとのことである。勇気がなくて「その本の著者の江藤淳です」と声をかけることができなかたことを悔やんでいる。
「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」平成11年7月21日 
「家内の生命が尽きていない限りは、生命の尽きるそのときまで一緒にいる、決して家内を1人ぼっちにはしない、という明瞭な目標があったのに、家内が逝ってしまったいまとなっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向って刻一刻と私を追い込んで行くのである」
結局は、仕事と仲間、ということになるのだろう。


以上は、2016年に書いた「名言との対話」だ。その後、いくつかの情報を得ているので、それを加えたい。

2019-06-19 神奈川近代文学館で「江藤淳展」をみる。近代日本の先駆者の評伝、史伝、GHQ占領史などを手掛けた論客。1982年以来、当財団の理事をつとめたこともあり、没後20年を期して企画展を開催した。

1932年(昭和7年)誕生。少年時代と晩年に鎌倉に住んだ。21歳、慶應義塾大学文学部に入学。22歳、自殺未遂。23歳、三田文学に『夏目漱石』を書いて文壇デビュー。本名は江頭淳夫、ここからペンネームを江藤淳とした。『夏目漱石『』(下)は後の妻・三浦慶子(1933-1998)が清書。ピョンヤンで母子で収容所に入れられ、脱出し、米軍に保護されるという体験を持つ。25歳、大学院にすすむ。三浦慶子と結婚。26歳、1958年、「若い日本の会」を石原慎太郎大江健三郎らと結成。『奴隷の思想を排す』(文芸春秋新社)を書く。学生の身分で商業雑誌に寄稿することが問題となり、退学勧告がでる。授業料は払うが、1年間授業には出ない。27歳、1959年、『作家は行動する』(講談社。装丁は石原慎太郎)を書き、予定通り自主退学。1961年、29歳『小林秀雄』(講談社)。30歳、ロックフェラー財団研究員として夫婦で渡米。『小林秀雄』が新潮社文学賞を受賞。31歳、プリンストン大学客員助教授となり、日本文学史を講義。「アメリカと私」。「私が東京の生活の中では意識の底にかくされていた自分をとり戻すにつれ、私は遂に米国の社会に、より深くうけいれられはじめたのである」。35歳、『江藤淳著作集』全6巻。38歳、『漱石とその時代』第1部、第2部刊行。菊池寛賞野間文芸賞。39歳、東京工大助教授。41歳、教授。41歳、『江藤淳著作集 続』全5巻。42歳、『江藤淳全対話』全4巻。43歳、慶應義塾大学に学位申請し、文学博士号を取得。44歳、1976年、『海は甦る』全5巻(1983年まで)。50歳、鎌倉に転居。52歳、『新編江藤淳文学全集』全5巻(1985年まで)。59歳、慶應義塾大学環境情報学部教授。61歳、『漱石とその時代』第3部。64歳、大正大学大学院教授。66歳、妻・慶子死去。1999年、自殺。享年66.『漱石とその時代』第5部(未完)。

福沢諭吉の文体」。「特徴は著者の肉声が聞こえる文体にある」。福沢諭吉「学問のススメ」が座右の書。「心身を労して私立の生計を為す者は、他人の財に依らざる独立なり」に共鳴し、たびたび引用した。江藤淳の原稿には書き直しがない。「漱石とその時代」がライフワーク。38歳から66歳までの28年間。全5巻(最後の巻は未完)。

日本の有識者は、「無条件降伏ではなく、有条件降伏と考え、保証占領、先例を発見するに苦しむ新種の占領と考えていたこと」を発見する。

書斎が再現、座り机。座布団が2枚。論文は万年筆、エッセイは鉛筆。

遺書「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う。諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」。河出書房新社江藤淳』、『海舟余波』を購入。勝海舟福沢諭吉の考えの相違についても江藤は分析している。勝海舟の生き方は、一貫している。この『海舟余波』の読後には、変節漢呼ばわりする福沢の説よりも、海舟の生き方に軍配をあげたい気がする。 

2019-07-09 『江藤淳ーー終わる平成から昭和の保守を問う』(河出書房新社)を読了。2019年5月発刊。神奈川近代文学館で買った本。論争家。批評家。講演の名手。占領史研究。1956年に刊行された批評家・江藤淳の第一作『夏目漱石』は生活人としての漱石という新しい漱石像を提示した。代表作は『漱石とその時代』であった。第5部まで書かれた。しかし、不思議なことに、江藤の自死によって、このライフワークは未完に終わっている。

・完璧な原稿を編集者に渡すことが誇りだった。(福田和也)・漱石の次には谷崎潤一郎を書くと決めていた。・意図的な自死は人間の(最後の)表現活動なのだ(西部邁)・漱石はあまりに著者である江藤淳に似ていたのだ(高橋源一郎

以下、江藤の言葉。

「創造性があるとか、ないとか、そのようなことは問題ではない。ぼくは創造せねばならないのだ」(高校3年生の時の書きつけ)

「死ぬときにはどうしたら一番効果的かを考え、それには「憂国」を演じるのがいちばんだと思ったのではないか。練りに練った末の三島自作自演の一幕ではないか。そういう気持ちをどうしても拭えないのです。」

「みんなを「敵」としておいて、そのどの敵とも時と場合に応じて「正心誠意」合従を企てる。それが海舟のよって立つフィロソフィーであった。」(江藤淳『海舟余波』)

「どんなに出来の悪くて、やる気のない生徒であっても、教員が本気で取り組んでいるかは、驚くほど敏感に感じる、だからこそ、われわれ教員は、常に本気で生徒に接しなければならない。」(慶應SFCの教え子)

アメリカ人は何でパーティなんてやるんだろう、寂しいからだなと思ったんです」(上野千鶴子との対談)

最初の「名言との対話」以前の江藤淳についてのブログから。

2016-02-16。 文藝春秋3月号の「最後の言葉」という特集が目についた。「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」「家内の生命が尽きていない限りは、生命の尽きるそのときまで一緒にいる、決して家内を1人ぼっちにはしない、という明瞭な目標があったのに、家内が逝ってしまったいまとなっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向って刻一刻と私を追い込んで行くのである」「最後の最後まで仕事が続けられるように心がけ、そしてひと握りの理解者に囲まれて生を全うしたいものだ」
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この人の本は評価も高く読者も多いのだが、何十年作家家業をやっていても、自分の本を読者が読んでいる姿を見たことがなかったそうだ。ところが、山手線に乗って座ったら向い側の紳士が自分の最新刊(山本権兵衛を描いた「海は甦る」だったか)を熱心に読んでいる姿をみた。江藤は驚き、そのまま食い入るようにその紳士の表情と目線を追い、その姿と表情ををじっと感動を持って眺め続けたとのことである。
考えてみれば、小説や評論を書き続け読者がたくさんいるということは知ってはいたが、実際に読んでいる人を見たのは初めてだとそのエッセイで述懐していた。勇気がなくて「その本の著者の江藤淳です」と声をかけることができなかたことを悔やんでいる。話しかけようと思ったが、江藤ですら固まってしまったというエピソードを紹介していた。たしか文春だった。
私にも同じような体験がある。2011年。立川の駅ビルで昼食を食べて、そのフロアにある書店に入った。私の新著『人生の道を拓く言葉130『』(日経ビジネス人文庫)がどこに並んでいるかを見ようと軽い気持ちで書棚を眺めたら、一番前面の文庫のコーナーの上の方に面を出して並んでいるのを見つけた。一緒に並んでいるのは、右隣は「戦略の本質」、左は「28歳の仕事術」と「人事部は見ている」で、いいところに置いていただいていた。ふと隣に女性が入ってきて、いきなり私の『人生の道を拓く言葉130』本をつかみあげた。驚いて少し下がって静かにその光景を確認する。この女性は買うのだろうか、買わないのだろうか。右手で2回ほどめくって内容を確認していると思ったら、それを片手に他のコーナーへ行ってしまった。そして実際にレジで購入するという一連の流れをまじかでみた。

この女性はキャリアウーマンと思しきはっきりとした顔立ちであったが、雑誌のコーナーなどを身軽に飛び回って物色している。私の本は肩にかけるようにしているので、私の位置からは遠目に表紙が見て取れる。こういう光景に出合うことはまずないと思い、バッグの中から小型カメラを取り出して構えることなく、さっと撮影してみた。

この女性は新著に最初から関心があったのだろうか、題名にひかれたのだろうか、、。この短い時間は、今でもありありと思い出すことができる。この間の時間はどのくらいだっただろうか、長い時間だったような気もするが、実際は一瞬の出来事だったと思う。この時間は、今になってみると至福の時間であったと思う。こういう読者の顔を意識して次の仕事にあたらねばならないとやや興奮して考えてしまった。

自分の著書を実際に買う光景を見たのは、これが2回目だ。書店で手にする人は何度も見ているが、人は簡単には買わないものだ。最初は宮城大学時代に、仙台の大型書店で、これも女性が手にして買おうか迷っていた。そして買うことに決めたと思われるその瞬間に、思い切って「それ買いますか。私が著者です。」と話しかけてみた。相手は一瞬びっくりして少し後ずさった感じだが、「そう、今は仙台にいらっしゃるんですね」と返事をしてもらった記憶がある。

 

妻の死に衝撃を受けて自死を選んだ江藤淳は、多くの理解者に囲まれて素晴らしい仕事をなし遂げたから幸せな生涯であった思う。そして作家として読者の姿を初めて見たときに感動して固まってしまたっという江藤のエピソードに私は共感する。その短い至福の時間こそ、永遠の時間だったのではないか。幸せというより、「至福」という言葉が似合う。