映画『聖の青春』(棋士)。「田原書房」の講座(miro)。「図解塾」「幸福塾」の準備(ZOOM)。「道」(禅)。

映画『聖(さとし)の青春』をBSでみました。

29歳夭折した将棋の天才棋士村山聖九段の物語。難病を抱えながら全霊をこめて打つ将棋の世界。羽生善治との聖なる戦い。羽生善治は1970年9月27日生まれの一つ上で、通算成績は村山の6勝8敗(不戦敗1)とほぼ互角だった。とてもいい映画でした。

https://eiga.com/movie/84239/  (映画.com)の紹介より。

村山 聖(むらやま さとし、1969年(昭和44年)6月15日 - 1998年(平成10年)8月8日)は、日本の将棋棋士、九段。享年29。

難病と闘いながら将棋に人生を賭け、29歳の若さで亡くなった棋士・村山聖(さとし)の生涯を描いた大崎善生による同名ノンフィクション小説を、松山ケンイチ主演により映画化。幼い頃から腎臓の難病・腎ネフローゼを患い、入退院を繰り返した村山聖は、入院中に何気なく父から勧められた将棋に心を奪われる。師匠との出会い、そしてプロ棋士として羽生善治ら同世代のライバル棋士たちと死闘を繰り広げ、まさに命を削りながら将棋を指した村山聖の壮絶な一生が描かれる。、、羽生善治 とは「東の羽生、西の村山」と並び称された村山を演じる松山は、役作りのため20キロ以上も重増。羽生役には東出昌大が扮した。

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田原真人さんガmiroに建築中の「田原書房」の講座。40人。うち、知り合いは5人ほど。イベント会場ににたどり着くまで23分かかった。これもプログラミングされていたらしい。

  • miro上に自分書房を建築中。自分書店の可能性。一人一人がキュレーター。ワールド感。遊び心。立体的。プロセスを楽しむ。文化の時代。投げ銭。自分書房ネットワーク。自分書房キット。アイコンファインダー。クレーン。飛行船。
  • 曼荼羅。お墓。銭湯。、、、、広島、市川、北海道、、、。
  • 自分をつくった本。自分がつくった本。自分がつくる本。図解ウェブとmiro。地下と地上と雲上。過去・現在・未来。混浴。レイランド。ブクログとの連動。、、、、

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「図解塾」第4期の準備。「幸福塾」の準備

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今日のヒント。朝比奈宗源。『人はみな仏である』(春秋社)

・人類がどうすれば幸せになるかという、基本的な人類の目標を見失ってしまいそうな現代を、いちばん憂えるのであります。

・世の中で長者といわれる人、お経の定義では富もあり心も豊かで智慧もある人のことですが、人間の長者、幸せな人というのはそういう人だと思います。

・幸せになるにはつくりごとをやめることじゃ。つくりごとを重ねると身も心も不健康になる。

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「戦後命日編」で、以下の様に朝比奈宗源を取り上げている。

「名言との対話」8月25日。朝比奈宗源「雑念や妄想はなくならない。なくならないものをなくそうとするからまたひとつ煩悩になる」

朝比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年明治24年1月9日 - 1979年(昭和54年)8月25日)は、臨済宗禅僧

京都妙心寺などで修行し、鎌倉浄智寺住持をへて、1942年円覚寺貫主となり。1945年には円覚寺派管長となる。1963年賀川豊彦尾崎行雄らと世界連邦日本仏教徒協議会を結成し会長となった。1979年、88歳で死去。

朝比奈宗源と向き合うことになり、 中国の偉大な禅者・臨済の言行録である有名な『臨済録』を現代語で読める機会が巡ってきた。

臨済は臨済宗。866年の没年だけがわかっている。黄檗希運の法を継ぎ、参禅修行者には厳しい(かーつ!)を与える臨済宗は中国禅宗のなかで最も栄えた。

朝比奈は『臨済録』で、まず、この語録は「教外別伝、不立文字を本領とする禅者の語録である」とし、「いかなる文字言句も、月をさす指であり、門を叩く瓦である」と、朝比奈はこの本に掲げた「現代語訳について」で述べている。

教外別伝とは、仏陀の教えは、言葉によって伝達された場合もあったが、仏教精髄は言葉によって表現しうるものではないので、心から心へと直接伝達されるとする考え方だ。不立文字とは、経論文字によらないで、師の心から弟子の心へと、直接に悟りの内容を伝えてゆく伝法の方法だ。いずれも禅宗独特の用語である。

その上で、臨済は弟子たちに何を語ったか。その語録が『臨済録』である。弟子たちは執拗に「仏法のぎりぎり肝要のところは何か」と問う。師は一喝する。その繰り返しの中で、師は本質を述べていく。

・信に徹しきれない者はいつまでたっても埒のあく日はあるまい。

・自己の一念一念が本来清浄であると悟れば、それがお前たちの法身仏そのものだ。

・どんな場合でも自己がはっきりしていれば、外境にいかなる変化が起こっても振り回されることはない。

・仏と魔とは、一心の悟りと迷いの両面である。

・たった今、ここで自己が本来仏であり、他に求むべき何ものも無いことを見てとれ。

・今、仏道を学ぼうとする人たちは、まずなによりも自らを信じなくてはならない。

・大器の人であれば、なによりも自己の尊さを信じて、他に惑わされないことが大切だ。随処に主となることができればその場その場がみな真実である。

・生と死とは一如であって対立するものではない。

・死骸のような文字や言句を担いで天下に走りまわり、みずからの邪見に妨げられて心の自由を失っている。

要するに、先人や文字に真実を求めることなく、仏そのものである自らを信じ迷いなく、随処に主となり、日常生活を送れ、ということを繰り返し言っているのである。

そして朝比奈宗源は、雑念や妄想、煩悩には実体はないのだから、見るもの聞くもの、みな仏性であることを悟って、生活をすれば仏になることができると語っている。外界の人や書物や言葉に惑わされず、毎日を清浄な心をもって生活せよ、そう理解しよう。

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今日は「明治誕生日編」で取り上げる。違う本を読むと、違った学びがある。それを積み重ねていくと、深い学びになっていく。仏陀臨済道元白隠、そして宗源。

「名言との対話」1月9日。朝比奈宗源「自分で自分を育てる。これが道心だ」

朝比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年明治24年1月9日 - 1979年(昭和54年)8月25日)は、臨済宗禅僧。 88歳で遷化。

静岡県静岡市清水区出身。4歳で母を亡くし、7歳で父を亡くす。8歳、お釈迦様の涅槃図を拝み、お釈迦様はほんとうに死んだのではないと聞き驚く。11歳で出家。32才で日大の宗教科専門部を卒業し、鎌倉の浄智寺の住職となった。42歳で円覚寺住職となる。1942年、51歳で臨済宗円覚寺派管長。

禅宗は仏法の全体なんだ、そんな宗(真言宗天台宗、浄土宗、真宗、)などといわれるもんじゃないと、道元禅師は主張しておられます。これが禅の立場に立つ者の本領であります。

・仏教で「神」とは何だと言うなら、「自然」と言ってもよい。宇宙そのものだ。

・解決すべき問題があって、はじめて聞いたり教えられたものが肥になって自己が成長する。

・人間は、辛いことも2年、楽しいことも2年、まず2年辛抱しなさい、必ず自体が変化する。

・喝ーーーなにもかもふっとばす。

この本では「道」についての理解が進んだ。

・道とは何ぞ、剣、茶、香等々を通じて自己の心の大本に達するを目標とするところに、道といわれる所以がある。いわんや仏道においてをやだ。

・志を立て、自分が自分を育てよ。人が育てるのでない。自分で自分を育てる。これが道心だ。

道、仏道、道心。自分の力で自分自身になっていく。それが仏の心だ。何でもいいから、道を歩こう。それは本当の自分への道である。