「50代で考えたい。人生後半で輝く生き方と自分に合った仕事」ーー「ヤフーニュース」で取り上げてもらいました。

幻冬舎ゴールドオンラインの連載を、ヤフーニュースで取り上げてもらいました。

50代サラリーマンで「私に合った仕事」がいま就いている仕事と合致していて、仕事に満足している人は天職に就いているといえます。しかし、合致せず、むしろかけ離れている人はすでに「中年の危機」を迎えているかもしれません。そういう人はどうすればいいのでしょうか。久恒啓一氏が著書『50歳からの人生戦略は「図」で考える』(プレジデント社)で解説します。

目次。

「5W2H」で自分に合った仕事がわかる

■「WHO」「関心」「能力」をチェックする

■「WHY」自分の「価値観」を確認する

■「WHEN」どんな「時代」が来るかを考える

適職についていないという「中年の危機」

■「WHAT/WHERE/HOW」で仕事を選択する

ーーーーーーーーーー

「ヤフーニュース」で流れると、アマゾンの順位はやはりアップします。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

今日のヒント。『人生の名言1500』(宝島社)

川端康成「一生の間に一人の人間でも幸福にすることができれば、自分の幸福なのだ」

-------------

明日からの「幸福塾」の準備。1万歩。

ーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月18日。石原莞爾「私は若干の意見をもっていた。意見のない者と、意見の対立はない 」

石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年(明治22年)1月18日- 1949年(昭和24年)8月15日)は、日本の陸軍軍人、軍事思想家。

山形県鶴岡市生まれ。関東軍参謀として満州事変と満州国建設を指揮したことで知られる。 1909年陸軍士官学校、1918年陸軍大学校卒業。ドイツ駐在。陸軍大学校教官などを歴任後、1928年中佐、関東軍参謀。
その後、ジュネーブ軍縮会議随員、参謀本部作戦課長などを経て、日中戦争勃発時 (1937) の参謀本部作戦部長、次いで関東軍参謀副長。対ソ戦準備のため、戦線拡大に反対した。 1939年東亜同盟発足に伴いその指導者となる。19 41年東条英機陸相に批判的であったため、現役を追われ、中将で予備役に入る。(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について) 

2019年発刊の新書版の石原莞爾『世界最終戦争』(毎日ワンズ)を読んだ。再刊版である。

第一部「最終戦争論」:戦争史の大観。世界最終戦争。世界の統一。昭和維新の目標。仏教の予言。結び。

第二部「戦争史大観」:戦争史大観の由来。戦争大観の説明。戦争指導要領の変化。会戦始動方針の変化。戦闘方法の進歩。戦争参加兵力の増加と国軍編成。将来戦争の予想。現在に於ける我が国防。

石原の戦争観は、「戦争は人類の有するあらゆる力を瞬間的に最も強く総合運用するもの」ということだ。戦争においては、敵に損害を与える、損害を我慢すること、その二つが大事だ。今後の戦争は、決戦戦争となる。老若男女、山川草木、豚も鶏も。空軍による真に徹底した殲滅戦争になる。もはや軍艦、大砲の時代ではない。空中戦が主体となる。量の時代から、質の時代へ。ニューヨーク、モスクワの空爆できる世界一の空軍を建設すべきだ。

太平洋を挟んで空軍による決戦。相手は西洋の覇道の王者・アメリカである。決戦兵器とは、一発あたると何万人もがペチャンコになる新兵器だ。世界最優秀決戦兵器の創造と防空対策の徹底。この2点が肝要だと主張する。原子核破壊による驚嘆すべきエネルギーを武器とする道を示している。つまり原子爆弾を意味している。他にも地下の放熱物体、成層圏の上の空中電気、水素の活用、なども視野にあった。

防空については、都市人口の大縮小をはかり、防空都市とする。中等学校以上は全廃するなどの教育制度の根本革新を行い戦争に対処する。それは最終戦争必勝のための昭和維新の断行である。

東洋の王道と西洋の覇道の最終決戦が迫る。そのために、日本と満州を中心とするアジアの国々の連邦である東亜連盟の建設など昭和維新の断行が必要だ。

以上が有名な石原莞爾の構想である。「信仰によって直感している最終戦争を、私の専門とする軍事科学の貧弱な研究により、やや具体的に解釈し得た」と後に質問に答えている。信仰とは日蓮法華経信仰である。

2015年に岡山県浅口市の仁科会館を訪問したことがある。仁科芳雄博士によるウラン濃縮研究が密かに行われており、サイクロトンという原爆製造装置の実験が行われていたことを知った。1935年(昭和10年)には原子核実験室でサイクロトンを完成させていた。その模型を見たことがある。石原はそのことを決戦兵器と呼んだのだ。仁科は広島に新型爆弾が落ちた時、これは原子爆弾であると即座に断定した。占領米軍は東京湾の海底に投棄している。

石原莞爾は、独立不羈、奔馬にような性格であった。 莞爾とはにっこりほほえんでいるさまを表すのだが、実際の石原はどうであったろう。莞爾は『論語』陽貨編に出てくる「夫子莞爾として笑ひて曰く、鶏を割くに焉ぞ牛刀を用いん」からきている。

満州事変を先導した石原莞爾については、戦犯の候補にもなったが、『世界最終戦争』を読む限り、大構想家であることはわかるし、再評価する向きもある。

2013年に鶴岡を訪問したとき、大宝館で先人たちが顕彰されていた。このとき、石原莞爾が紹介されていたことを思い出した。戦後、東条英機との確執を問われたとき、石原莞爾は「私は若干の意見をもっていた。意見のない者と、意見の対立はない 」と答えている。痛烈な批判である。この「若干の意見」が「世界最終戦争論」であったということだろう。