1月の知研セミナー「ミャンマーの実情を知ろう」

知研セミナー:荒川義宏(ジェトロ初代ヤンゴン事務所長)「ミャンマーの実情を知ろう」。14人が参加。

  • 1000年の歴史。王朝。英国統治。その後は軍政が中心。文民統治も。135の少数民族ビルマ族は70%。5400万人。著名人:アウンサン将軍。ネウィン将軍。ウタント国連事務総長アウンサンスーチー
  • 2020年11月総選挙でアウンサンスーチー女史の国民民主党が大勝した。2021年2月軍事クーデター。衝突で32万人の国内避難民。
  • 日本とは特別な関係:英国を追い出す。インパール作戦。30人の日本人独立義勇軍。映画「ビルマの竪琴」。日本は最大の援助国。戦後の4億ドルの賠償(発電所)と経済援助(円借款・技術援助)。工業化4プロ。ネ・ウィン時代に日野、マツダ、クボタ、松下が進出。
  • 世界有数の親日国。日本人のミャンマー観「プライドが高い。仕事が早い。汚職が少ない。英語国。恩を忘れない。日本を慕っている」。信頼できる国は日本がトップ。2019年は6割が日本を挙げる。期待感が強い。
  • 中間層の富裕化が進行したが、都市の貧困率37%、月6000円。アパレルと観光に打撃。
  • 新型コロナとクーデターで、経済の停滞・国際的孤立・社会は沈滞。

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参加者の学び。

  • 「知研」がリスタートしてから初めての参加でした。代々木に集まるのもいいですが、Zoomにより移動時間がなく参加できてよかったです。今回は報道では知り得なかったことがいろいろと分かりよかったと思います。ミャンマーの歴史や日本との関係などが非常によく分かりました。国軍による弾圧に加えてCOVID-19で疲弊し貧困率が急増しており解決策も見いだせないミャンマーの現状に皆さんと同じように心を痛めています。ミャンマーの人たちが中国が嫌いというのは初めて知りましたが、中国の勢力拡大に飲み込まれにくいかな、とちょっとだけほっとしています。日本が最も信頼されているようですが、それに応えられる国でいられるでしょうか。信頼されているならその立場を生かして解決に向けた行動ができるといいのですが。どうもありがとうございました。講師の荒木さんをはじめ、企画・運営してくださった皆様に感謝します。
  • 本日の知研セミナー「ミャンマーの実情を知ろう」、非常に興味深い内容でした。1000年前からのミャンマーの歴史的流れに始まり、現在までの民主化軍国主義化、現在のクーデター政権の誕生に至るまで、初代ジェトロの現地責任者だったご経験をもとに、俯瞰的に捉え、大変に有意義な時間でした。現在の実情を知るにつけ、ミャンマーの今後について、ますます心配になってしまうと同時に、日本の友好国(ミャンマーからすると日本人への信頼度が最も高い)である彼の国への関心が高まりました。ゲストスピーカーの荒木さん、貴重なお話をありがとうございました。
  • ミャンマー初代JETRO事務所所長としての立ち上げの苦労話、ミャンマーの歴史、日本との関係、現在の状況を説明いただき、非常に有意義でした。各国には、固有の歴史があり、その歴史を背負いながら、現在の政治、経済、社会状況が生まれているという思いを強く致しました。日本はミャンマーに経済援助で最大最も最も信頼されていると言うことで、なんとか、解決の糸口を見つけて行く努力を欲しいと欲しいと思います。荒木様有り難う御座いました。
  • 皆様、本日もお疲れさまでした。今回は知研セミナー「ミャンマーの実情を知ろう」に参加、JETROヤンゴン事務所初代所長をお勤めになられた荒木義宏様に講義頂きました。侵略と抗争の歴史、多民族構成、長年実権を掌握する「High Authority」、事務所開設をめぐる様々なご苦労、楽しかった手工芸品のフィールドワーク、国内外様々な情勢、日本の経済援助の意外に長い歴史、急速な経済発展からの「コロナ+クーデタ」という大打撃(経済と情報の分断)…。様々な切り口でパワーポイント実に23枚にわたる「史上最後のフロンティア」の90分を満喫しました。ASEANでの現地生産ビジネスに携わる自分も2016年に行ったヤンゴン出張は今でも強烈な思い出となって心に残っています。2か月待っても税関から出てこないコンテナ(動かない役人)、ハンバーガーショップやコンビニだってある一方で川岸に建つバンブーハウスで生活する人々との生活様式の格差、ほぼ90%超を占める日本の中古車でひしめくラッシュアワー…民主政権のもと健全に経済発展が続き、皆が豊かになってほしい、その一翼が担えたなら…等と当時はケツの青い思いでしたが、その後現在に至る軍政混乱と経済停滞は無念以外の何物でもありません。断絶と抑圧にあえぐこの国のピンチがどうか救われるようにと祈るしかない自分がもどかしいです。スマホに残る出張スナップを紹介します①コンテナを迎えに行ったヤンゴンポート、その近くで立寄った飯屋(私のアイコン写真はこれ)、そしてその時も走っていた「HINOトラック」。すばらしい講義を有難うございました。

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多摩大大学院修士論文を読む込む。1万歩。

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今日のヒント  矢内原忠雄『余の尊敬する人物』(岩波新書

「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」

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「名言との対話」1月28日。八木秀次「理工系には優秀な学生が来る、だが、高校、大学と6年間も人間学をやらないから、卒業したら文科系の者に負けるのだ」

八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、電気工学、通信工学を専門とする日本の研究者、教育者。享年90。

大阪府大阪市 出身。第三高等学校を経て、東京帝大電気工学科卒業 。仙台高等工業学校教授を経て、ドイツのドレスデン工科大学に留学。帰国後、東北帝大工学部電気工学科教授 。1926年に八木アンテナを発明。指向性超短波空中線方式、高周波光力変調方式など通信工学の分野での業績が大きい。工学部長。

大阪帝大理学部長、東京工業大学学長 、内閣技術院総裁 、大阪大学学長 などの要職を歴任した。1956年文化勲章受章。 

松尾博志『電子立国日本を育てた男 八木秀次と独創者たち』(文芸春秋)を読んだ。478ページの大作である。

絶えざる相互評価と厳しいランク付けのある学者の世界の苛烈な競争とそこでの独創者たちの群像が八木秀次という希代の人物を中心に描かれている。終身の学士院会員、文化功労者文化勲章ノーベル賞をめぐる人間ドラマが繰り広げられていることがわかった。

八木は二カ所の独創的研究施設を創成した稀有の人だ。東北大(八木アンテナ、陽極分割マグネトロン)と大阪大(理論の湯川秀樹サイクロトロンを持つ実験の菊池正士を中心とする原子核物理学研究のメッカ)である。阪大での仕事は会心の仕事だったとも回想している。八木は最先端分野を切り拓く優れた研究者であると同時に、プロデューサー型であり、行政職型の学者でもあった。名伯楽だった。

阪大時代に「中間子理論」の湯川秀樹を育てた功績は知られていないが、特筆すべき業績だ。湯川の本籍である小川家は一家で学士院賞3人、文化勲章2人、ノーベル賞1人という珍しい学者一家である。阪大時代、論文を書かない20代の湯川は八木学部長からから叱責され、半年後に書いた初めての論文がノーベル賞という金的を貫いた。湯川は量子力学相対性理論の融合という野心を秘めていたのだ。苦しい日々を湯川は「今日もまた空しかりしと橋の上にきて 立ちどまり落つる日を見る」「疲れても寝ねてもいのちあるかぎり 思いとどまる時はあらなく」と詠んでいる。湯川は世界に知られるような業績を挙げてから外国に行くという決意で研究に励んだのだ。ともにノーベル賞に輝いた朝永振一郎湯川秀樹は京大の同期生である。明と暗と、快と鬱。天才型の湯川と名人型の朝永。彼らは世界を先導する素粒子論の世界を切り拓いた。

広島と長崎に落とされた原爆搭載機には八木アンテナが装着されていた。敵国が採用していた。それほど八木の独創は優れていた。八木の主眼は独創であった。日本の学問を以下の様に痛罵する。西洋の極東総代理店。西洋学問輸入商。かつぎ屋学者。誰もが知らぬことをやるのが研究と他人がすでに知っていることをやるのが調査。本を書く暇があったら実験しろ。実験結果は永遠、理論には寿命。、、、

戦時中には技術院総裁として日本の科学者のトップに立ち、特攻隊という愚策を批判し、「必死でなく必中の新兵器」を開発しようとしたが間に合わなかった。ラジオで海外の電波を聴いていた八木は敗戦をずっと前から予想していた。八木によれば、日本には科学を培い、科学者を活かすという精神と思想がなかった。道具として使おうとした。それで負けたという見立てであった。

この血沸き肉躍る優れた本の著者である松尾博志は「あとがき」で、「八木の活動は日本の科学者としてはもっとも広範でなないか」と書いている。もともとは湯川と朝永の人間ドラマを書くつもりだったのだが、その過程であらわれる八木秀次という人物に傾斜していったのだ。

八木秀次の言葉の中から、「理工系には優秀な学生が来る、だが、高校、大学と6年間も人間学をやらないから、卒業したら文科系の者に負けるのだ」を採りたい。戦前の旧制高校では「人間学」を学んでいた。しかし戦後はどうだろう。文科系でも人間学は忘れられているのではないか。「人間学の復興」を凋落する日本の再起のエネルギーにしたいものである。