散歩中は『耳読』で「浅田次郎」「遠藤周作」。入浴中は『浴読』で「外山滋比古」。

散歩がてらiphone で書物の朗読を聴く「耳読」をやっています。kindleのAIによるよる読み上げではなくプロ仕様なので聴きごたえがあります。

浅田次郎『再会』は、文筆家として成功した主人公が会社の社長となった同級生と会うところから始まる。縁のあったそれぞれの女性が幸福と不幸の二つの相貌で目の前にあらわれるという不気味な物語だ。自分自身も落ちぶれた姿で友人から目撃される。偶然のいたずらによって、もう一人の自分がいることがわかるという奇妙なストーリー。

なるほど、現在の自分は数々の選択の結果できあがっている。もし、あのとき違う選択をしていたらどうなっただろうかと妄想することがよくある。「もう一人の自分」、いや、存在したかもしれない「無数の自分」がいてもおかしくない、そういうことを思わせた作品だった。

遠藤周作:『夫婦の一日』『人相』。浅田次郎:『再会』『ラブレター』

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本というものは、最初に読んだ時と、何年か時間が経って読むと違ったところに関心が湧くことがある。外山滋比古『知的生活習慣』を風呂で「浴読」したら、2015年の刊行時以外のところに赤線を引くことになった。

外山滋比古は20代から書き始めて、90代まで日記は一日も休んでいないそうだ。「黙々と走るマラソン」。「並べると後光がさすようで壮観」。「わが人生全集、こにあり」。「一日の決算」。「日記をつけ終わったとき、一種の快感を覚えるのは、忘却、ゴミ出しがすんで、気分が爽快になる、、」。「はつらつたる明日をむかえることができる」。「休んではいけない」。

私のブログは2004年から自分だけの本の形にして本棚に並べている。16冊並んでいる。これがどこまで増えていくかはわからないが、いずれ最大の著作になることは予想できる。人生の全集になっていく。それなら書く内容をもっと考えなければならない。

外山滋比古は、俳句は農村の詩であり、川柳は都会の詩であるという。川柳については以下の様に述べている。ユーモア。軽妙。知的。人口に膾炙。洗練。古川柳。子規に相当する巨人が出ていない不幸。高齢者の頭の体操として有効な文芸。国際化に適している。

ここで、私も短歌、俳句、川柳についてキーワードを並べて考えてみたい。短歌も俳句も少しかじってみたが、向いていない。川柳に的をしぼった方がよさそうだ。

短歌:自然と心の動きを詠む。生活。動画。個人。女。

俳句:自然を詠む。農村。風景。写真。足で詠む。座の文芸。生活。男。

川柳:人間を詠む。都市。知性。教養。ユーモア。皮肉。うがち。ひねり。

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今日のヒント。モンテーニュ『エセー』

運命は我々に幸福も不幸も与えない。ただその素材と種子を提供するだけだ。

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1.2万歩。

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「名言との対話」2月3日。各務鎌吉「最後に頼りになるものは廣く社會に生くる自己自身という一個の人間である」

各務 鎌吉(かがみ けんきち、明治元年12月22日(1869年2月3日) - 昭和14年(1939年)5月27日])は、明治から昭和にかけての日本の実業家。

岐阜県生まれ。東京高商(現在の一橋大学)を卒業、教員等の経験を経て、日本初の損害保険会社である東京海上保険株式会社に入社し、東京海上の社長となり、死去するまで会長をつとめた。世界の「トウキョウマリン」に育て上げた。三菱財閥の要職や貴族院議員を務めた。「損害保険業界の父」、「日本の損保事業王」と呼ばれた。世界保険殿堂に日本人として初めて選ばれている。各務は日本の財界を代表する人物となり、昭和天皇東郷平八郎に続き日本人3人目として『TIME』の表紙を飾ってる。日本人実業人の二人目は「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助である。

海運保険はイギリスの独壇場であった。東京海上は、保険金の支払いが急増し創業以来初の危機を迎えていた。入社3年しかたっていない26歳の各務はロンドンに派遣され、のちに文部大臣となる平生釟三郎29歳と共に再建案を練った。ぞの原因を徹底的に調べ上げ、再建案を作成し会社の危機を救う。この間のことは、小島直記が『東京海上ロンドン支店』に書いている。

遺族が寄付した基金で設立された各務記念財団(現在の東京海上各務記念財団)、母校に設置された一橋大学経済研究所は各務の寄付でできたものだ。各務記念財団は、私にとっては懐かしい名前である。この財団は私の30歳前後の時代に論文の募集をしていた。私も応募しようとしていたが、果たせなかった。そのとき、各務鎌吉の名前を知っていたので、興味があった。

小学校時代には、受け持ちの先生が『大人物になるかも知れぬ、兎に角普通の道を普通に歩いて世の中を送る男ではないから』と語っている。(宇野木忠著「各務鎌吉」)

海外赴任の心得を述べている。「内外何れにあるとを問わず凡そ商業(ビジネス)に渉る事柄は自己の知識經驗により、百折不撓の精神の下に終生尚足らざるの注意と勤勉とを以て徐々に會得すべきものたれば、海外渡航、一擧大成などいふ妄想は夢にだも見るべからず。自家の運命は自ら開拓せざるべからず。他力を以てしては何事も成す能わざるの眞理を辨知し、務めて自發的に、獨創的に与へられた絶好の機會を利用し、凡ての目前慾を犠牲に供し自己の知識經驗を開發増進するに努力すべし」(「各務鎌吉君を偲ぶ」)

関東大震災では政府は後藤新平、民間は渋沢栄一が活躍する。ここまでは知っていたが、損害保険協会の各務会長も活躍する。火災保険では、地震と噴火は保険会社は免責になっていた。そのとき、各務は、世論と政府の意向を踏まえ、罹災者に保険金額の1割を払うという合意をとる。その後、大口顧客には減額するなどの曲折を経てこの方向で罹災者を救う。各務は「六千三百餘萬圓程預金部の金を(政府より)借用して、罹災者に一割の見舞金を支拂ふことによって問題を解決した」と述懐している。東京海上は1割をすぐに肚った。当時、「鯛焼き」に、各務の顔を入れた「火災焼き」が東京で売れた。この評判が東京海上の契約者を飛躍的に増やした。2011年の東日本大震災のときも、こういった先例も参考にし、保険会社は半壊などの要件を緩和し、保険金を払うという施策を実行したことも記憶に新しい。私が持っていた住宅もその恩恵を受けた。

亡くなった時の弔辞では、「多くの外面的なるものゝ喪失されたる末に、結局最後に頼りになるものは廣く社會に生くる自己自身という一個の人間である」という言葉が紹介されている。

ロンドンや関東大震災のときの、エピソードでは、その都度、全力をふるって問題解決にあった人であることがわかる。人には頼らない。自分自身で問題を解決しようとした人である。各務は眼前の個人的の欲望を去って、知識を広くし、経験を深め、時間をかけて己を創り上げた人であると深い印象を受けた。

 


参考

・サイト:東京海上の歴史 各務鎌吉

・サイト:鈴木治の世界:保険とリスクマネジメントへの誘い