ZOOMで知研セミナー「AIのべりすと、で小説を書こう!」を開催しました。21名が参集。20時から1時間半。
画期的なソフト「AIのべりすと」の勉強会です。
新しいタイプの「知研セミナー」になったのではないかと思います。



以下、fbグループ「知的生産の広場」Facebookに、すぐに書き込まれた参加者の学びです。他の方のコメントもどんどん書きこまれると思いますので、順次加えていきます。
- 今日は知研セミナー 『「AIのべりすと」になろう』に参加しました。久恒先生からお誘いいただいたとき、文章を書くのが苦手な私にとって「のべりすと」は最も縁のないお話だと思いましたが、「AIを使って…」という点に魅かれて参加しました。90分ほどのセミナーでしたが、実習してみたらとても楽しかったです。私が簡単な文章を入力するだけで、その倍以上の長さの文案をAIが続けて作成してくれる。私はそれを修正し、AIに指示すると、また続きの文案が表示される。苦労して一から文章を考えることなく、次の文案を提示してもらえるので、文章が苦手な私でも、あっという間にサクサクと長文ができました。AIと会話しながら小説を書くとはこんなにおもしろいのかと驚いた次第です。実際に「のべりすと」になれるかどうかは別にして、ある種のゲーム感覚で、しばらく楽しんでみようと思います。お誘いいただき、どうもありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。
- 本日の知研セミナー「『A.Iのべりすと』で小説を書こう!」終了いたしました。自身の最初の発想をいかにA.Iが勝手に展開を進めていってくれるか、ということに面白みを感じました。セリフ中心、のA.I変換を選ぶと、展開やセリフがライトノベルのようになっていくのはなかなかユニーク、というか「よくわかっているな」という印象すら覚えました。適当な文章を入れてもそれなりな文になっていくので、学生がレポートなどに利用するのも面白いのではないか、などと不穏なことまで……ある意味、文章を書くことに対しハードルを感じる人にとっては自分の書いている文章の続きをA.Iが書き、その続きが気になるので、自分がさらに書く、という良い流れで文章が出来上がっていくため、文章版「連歌」のようなものとも言えるのかな。また、言葉や文章のおかしい流れは自身が編集者としての立場(メタ視点)で直せるため、より客観的に自身の作品を見られ、ストレスなく修正できるため、そういった用途に使ってみるのもありなのでは。総じて新たな「知的生産」の技術と呼べるツールでした。非常に面白いセミナーでした。ゲストの皆さんお忙しい中ありがとうございました。
- 今日は「知的生産の広場」のセミナーに参加しました。この会は、1969年に梅棹忠夫さんが「知的生産の技術」を出された後に八木哲郎さんが設立された「知的生産の技術研究会(知研)」から始まり、50年の歴史をもち、これまで800回ものセミナーが開催されたそうです。設立者の八木さんが先日お亡くなりになり、残ったメンバーで新生「知的生産の広場(知研セミナー)」として再出発しました。「新時代の知的生産の技術」「人生100年時代の生き方」がメインテーマです。今日のセミナーは、AIと一緒に小説を書こうという「AIノベリスト」の紹介と体験。AIが蓄積した174万冊の書物から、文章の続きをどんどん提案してくれるのを参加者全員が実際に経験してみました。アカウント登録し、文章を書き出してみると、AIが続きの文章を提案してくれます。気に入らなければ何度でもやり直せて、この繰り返しで小説が書けるというわけです。やってみるととても面白い!試していないけど、文豪の文体も選べるとか。いろいろと遊べますし、小学館でAIと一緒に作った小説のコンクールも始まったそうです。それにしても、こういうのを作ろうとした発想そのものが素晴らしい!開発者はStaという方で、小学校1年生の時不登校、9歳でゲームを1000本作り、2012年に作ったTone Sphereは世界中で120万ダウンロードされたそうです(この方の経歴もたいへん興味深いです)。とにかく、新しい世界に出会って、次々とアイディアが広がりました。
- 今日の知研のセミナーはAIと一緒に小説を書こうという「AIノベリスト」の紹介と体験。AIが蓄積した書物から、文章の続きをどんどん提案してくれるのを実際に経験してみました。面白い!試していないけど、文豪の文体も選べるとか。これからいろいろと遊んでみようと思います。それにしても、こういうのを作ろうとした発想そのものが素晴らしい!小説以外にもアイディア次第でいろいろ使えそうですね。私はメールの返信を書く時などけっこう表現を気にしすぎて時間がかかることが多いのですが「あなたの言いたいことはこういうことですか?だったらこういう表現はどう?」と提案してくれるとか。官僚の皆さんが議会答弁書を作る時にキーワードや質問者など条件を入れればすぐ答弁書を作成してくれるとか(それだったら官僚に作らせる必要もないか)。とにかく、新しいことに出会うと、次々とアイディアが広がります。ありがとうございました。
- 久恒先生、皆様、本日もお疲れさまでした。本日は知研セミナー『「AIのべりすと」で小説を書こう!』に参加しました。実際に使ってみて、参加者各々が感じた手応えを語り合いながら、このソフトのすごい威力を共通認識するという、必死についていく90分間を過ごしました。入力欄に自らが簡単な文章1行を打ち込み「続きの文章を書く」のバナーをぽちっと押すと、すると、瞬時に続く文章が現れ出てきます。しかもいつの間に「喫茶店」とか「半年前」等という場所や時間設定ばかりか簡単なストーリ展開までが、3行くらいのボリウムで綴られ出てくるのです。気に入らなかったら適宜消すなり直すなり自由自在。こうして「自分の思いもよらない」情報を織り交ぜながら文章がどんどん膨らんでいくというモノでした。説明では、使うヒト自身が気付かない心理状態をAIが予測して当てに行くのだとの事、将棋の藤井竜王もこれを応用したソフトで日々鍛錬しているそうで、これぞ最強のパートナーという印象。参加者の言葉では「想像以上の世界に引っ張りこまれた」「漫画のよう、絵を描く感覚」「つじつま合わせくれる」「多面的にイメージ膨らむ」「オリジナルを大事に発想借りながらその後の展開」「その後を考えたくなる見事なAIの作文」と、ポジティブなものばかりでした。先日遥か昔の一人旅を記録した手帳が出てきたのですが、これを駆使して「思い出の紀行文」どころではなく「bigな未知の旅プラン」が描けそうです。使い倒してみたい、先ずは鍛錬ですね。有難うございました、今後とも宜しくお願い致します。
- 入れたのは最初の文のみ、でなんだか時代劇になってしまいました(^_^;)後半は「セリフ中心」変換モードにしたので、なんだかライトノベル風になりました。
- 本日はありがとうございました。皆さんの知的好奇心に、大変刺激を受けました。共有できなかった、A Iが作ったわたしのプロフィールをこちらでシェアさせてください。好きな色:赤まで自分で入力しました。あれ、自分で書いた?という内容で笑えます。【プロフィール】名前:レーコ誕生日:8月22日好きな色:赤、黒、白特技:スポーツ全般(特に水泳)、楽器演奏。苦手なこと:勉強、辛いもの特徴:ポニーテール。一人称は「あたし」。二人称は「アンタ」「お前」など。口が悪い。
- 本日はありがとうございました!色んな角度から深く分析されたコメントばかりでとっても面白かったです。新しいまなざしで、AIのべりすとに向き合う機会となりました。
- 良い刺激的な時間が過ごせました。ありがとうございました。新たな世界が拡がり、このツールを使いながら、色々な事を実験的にやってみます。文章を書くのが苦手ですが、楽しみながら創作物を生産していきます。
- 「AIノベリスト」体験の続きです。一番の感想はやはり「楽しい!面白い!」ということでした。トライアル文の出だしを「吾輩は犬である。名前はポチ。そんな吾輩は今、」と、「犬」と「ポチ」だけ変えて入力したところ、「お天道様が真上を通り過ぎようかという時間に街を歩いている。別に用事があるわけではないのだが、何となく散歩をしたくなったので、こうして当てもなく彷徨っているのだ。「いやー、それにしても今日も暑いな」照りつける日差しに思わず愚痴が出る。ただでさえ暑いというのに、このクソ暑い中、こんなにも人が行き交っていては余計に暑く感じるではないか。まぁ、だからといって帰る気にはなれないので、・・・・」と出ました。なんとなく犬っぽいユーモアを感じるような文章が出てきたのと、思わず続きを入力したくなるような切れ方にびっくりでした。このあたりの感触が「最先端のAIの技術」なのかなあと思い、親しみも感じました。しばらくいろいろな文章を入れて遊びつつトライしてみようと思います。
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皆さま、お疲れ様でした。私はその時間、自分で入力せずに、例文から、2パターン、AIだけに作らせてみました。なかなかですね。どうもこのAIはラノベが好きなんですね。吾輩は猫である。名前はまだない。そんな吾輩は今、この世で最も恐ろしい存在と対峙していた。「にゃーん」それは白髪の老婆だった。いや、ただの老婆ではない。その手に持つ包丁が怪しく光り、足元には人間の首から上が転がっている。「お嬢ちゃん……あんたも早くこっちへおいでよぉ?」「ひっ!」そして、その包丁を持つ手がこちらへと伸ばされる。少女はその手に怯えて尻餅をついてしまったようだ。「さぁ、一緒に死のうねぇ?大丈夫だよぉ〜痛くはないからねぇ〜」「だ、誰か助けてぇええ!!」その悲鳴を聞きながら、俺は心の中で呟いた。(なんでこうなったんだろ……)事の始まりは数時間前に遡る。俺の名前は佐藤和真。年齢は16歳。死因は多分餓死だろう。名前はあれだが、日本という国で生まれ育ち、高校受験を控えた中学3年生だった。趣味はゲームとアニメ鑑賞。あとラノベを読むことくらいか。吾輩は猫である。名前はまだない。そんな吾輩は今、とても困惑している。なぜか、我が家に一匹の犬が住み着いてしまったからだ。しかもその犬はとても賢く、また人懐っこい性格で、初対面からしていきなりこのように甘えてきたのだ。最初は驚いたし、一体どこから来たのかと不思議に思ったのだが……まあ、それはそれとして。どうやらこの犬も家族の一員になったらしいので、ひとまず受け入れることにした。「わんっ!」……しかし本当に賢いなこの犬。なんというかこう、人の言葉を理解しているような節があるぞ? 例えば今もこうして『ご飯ちょうだい』とおねだりをしてくるし……。……まさかとは思うが、私が言葉を話していることに気づいているのだろうか。「わふっ」……そういえば以前、妹が同じことを言っていた気がするな。あの時は確か、『お姉ちゃんって時々人間とは思えないほど可愛い声出すよね~』とかなんとか。
「おいら涙売るよりも 笑いを売るのが好き 代はいらない 人が誰も幸福なら おいらいいさ」
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「名言との対話」2月10日、平塚らいてう「原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である」
平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年〈明治19年〉2月10日 - 1971年〈昭和46年〉5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、女性解放運動家。
東京生まれ。東京女子高等師範附属高等女学校(お茶の水女学校)卒業。20歳、日本女子大卒業。21歳、閨秀文学会に参加し講師の森田草平と出会う。22歳、恋人となった森田と死の旅に出るが捜索隊に発見される。(塩原事件)。25歳、「らいてう」のペンネームで『青靴』に「原始、女性は太陽であった」を執筆。26歳、後に夫となる奥村博史と出会う。28歳、共同生活。29歳、長女誕生。31歳、長男誕生。32歳、与謝野晶子と「母性保護論争」。34歳、市川房江らと新婦人協会を結成。37歳、関東大震災。39歳、博史は成城学園の美術教員。43歳、消費組合「我等の家」理事長。47歳、『雲・草・人』を刊行。55歳、婚姻届け、奥村姓となる。59歳、敗戦。61歳、息子夫婦、孫と同居。64歳、ダレス米国務省顧問に「非武装国日本女性の講和問題についての希望要綱」を手渡す。67歳、日本婦人団体連合を結成し会長。国際民主婦人連盟副会長。68歳、世界母親大会開催。69歳、「世界平和アピール七人委員会」に参加し、湯川秀樹らと行動。80歳、ベトナム戦争反対運動。85歳、死去。(奥村直史『平塚らいてう』(平凡社)の「関連年表」から作成)
凄まじい行動力である。
夏目漱石の生涯を追っていると、弟子の森田草平の塩原事件がでてくる。草平はその心中未遂事件を『煤煙』という小説に書いている。その相手は若き平塚らいてうであったことをはじめて知った。
「子供を産み育てることは、社会的・国家的性質を持つものであるから、女性が子供を育てている期間、国家の保護を求めるのは必要なことである」「女性は母性であるが故に保護されるべきである」とする平塚らいてうに対して、与謝野晶子は「国家に寄食する依頼主義である」「男女は対等な関係」として批判した。「母性保護論争」として有名だ。今日にも通じる問題である。
らいてうは「鳴神や、仁王の臍の紙礫(かみつぶて)」という豪快な俳句も詠んでいる。雷が鳴っている。力強い仁王の裸体にその稲妻が落ちるごとくに。そういう意味だろうか。鳴神やの後に、句読点を打つなど奔放な句風である。
市川房江は、平塚との初対面の印象を「物静かな美人で、この人が『新しい女』なのかとびっくりしたのでした」と記している。らいてうは、身長は145センチであり、当時の平均身長147センチよりも低かった。
奥村直史『平塚らいてう』(平凡社)をkindleで呼んだ。この人は一緒に住んだ平塚らいてうの孫だ。孫から見た5歳ほど年下の絵描きの奥村博史との共同生活、結婚の様子が描かれていて興味深い。長男の直史の嫁が生活全般の世話をしてくれたようで、理想の主婦と感謝している。子どもを生んだことを実によかったと回想している。
『青靴』に書いた冒頭の「原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」は日本女性近代史を飾るトップ級の名言である。女性を語るとき、「原始、女性は実に太陽であった」ほど有名な言葉はないのではないか。日本史において、平安以前は女系家族であり、女帝が多くその官僚としての女官の存在など、まさに女の時代であったともいえる。女を太陽にたとえるなど、この言葉には強い力がみなぎっている。平塚らいてうのメッセージ力は、群を抜いている。それは弱冠25歳のときの言葉である。その前も、その後の60年にわたる長い生涯においても、全力疾走したことがわかった。