「幻冬舎オンライン」の『50歳からの人生戦略は「図」で考える』の連載が終了。

幻冬舎オンライン」で2021年9月6日から毎週連載続けた『50歳からの人生戦略は「図」で考える』が2022年2月14日の21回をもって終わりました。毎回、ヤフーニュースに転載されました。

50歳からの人生戦略は「図」で考える

毎回、「ヤフーニュース」に転載されました。

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今日のヒント。石橋正二郎

世の人々の楽しみと幸福(しあわせ)のために

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「名言との対話」2月14日。広田弘毅「風車 風の吹くまで 昼寝かな」

広田 弘毅(ひろた こうき、旧字体:廣󠄁田 弘毅、1878年明治11年〉2月14日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の外交官、政治家。

福岡市出身。東京帝国大学法科卒業後、外務省に入省。1923年、欧米局長。オランダ公使、ソ連大使、外務大臣などを歴任。1936年の2・26事件後の組閣で首相に就任するが、翌年1月に総辞職した。第1次近衛内閣で外相に就任。戦後、A級戦犯となり極東国際軍事裁判で文官としてはただ一人死刑となった。70歳で没。

石屋の息子であった広田は東京帝大卒業まで、郷里福岡の玄洋社の国士・頭山満の援助を受けていた。本名の丈太郎から変えた弘毅とは論語の一句「士は以って弘毅ならざるべからず」から取っている。広い見識と強い意志力を持つという意味であろう。外相に就任したとき「協和外交」を標榜している。これは玄洋社の大アジア主義の流れであった。

2006年に福岡の玄洋社記念館を訪問した。「皇室を敬載すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」との三原則を基幹とした政治結社明治12年にこの名前になった。佐賀の大隈記念館で大隈外相を襲い条約改正を葬った来島恒喜がが玄洋社社員だったことを思い出した。玄洋社は、自由民権運動憲法の新設、国会の開設、祖国の国力伸張に奔走する。また屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基づくアジア民族の自決独立の援助を行う。孫文を助けるなど中国革命における玄洋社の存在は大きく第二次世界大戦終了直後まで日中平和工作を継続していた。記念館入り口の写真や関係者の名簿に度肝を抜かれた。当山満、広田弘毅中野正剛緒方竹虎、進藤一馬などそうそうたる人材を輩出している。1946年に玄洋社は占領軍により強制的に解散される。

10年後の2016年に、 福岡市美術館で開催中のモネ展を観たとき、美術館の近くに広田弘毅像があり、また美術館の前庭に進藤一馬像があった。

極東裁判ではA級戦犯として起訴された人の中でただ一人の文官だった広田弘毅は無言で通し死刑を言い渡された。その広田は絞首台で「自然に生きて、自然に死ぬ」と最後の言葉を述べている。恬淡として時代の要請に従って生きた広田の座右の銘は「物来順応」であった。勝敗を忘れ去り自然にままに動くという剣の極意からきている言葉である。城山三郎の『落日燃ゆ』でその生き方が世に知られた。私も熱心に読み感動した。冒頭の「風車 風の吹くまで 昼寝かな」は、風が吹くまでは昼寝をし、風が吹いてくれば世に立つという伸びやかな人生観を感じさせる。