深呼吸学部「メタチャット」の可能性を追う。人口波動学「工業後波は集約と統合」という未来を予測。

午後:古田隆彦「人口波動学」

  • 人類は言葉と道具を持った。
  • 人口減少期には「混乱と革新」が起こる。そして次の時代へ。
  • 工業前波:分節、絶対化、システム化。粗放工業。分断。
  • 工業後波:合節、相対化、ストラクチャー化。集約工業。統合。

全体の全体化。部分同士の新しい関係の発見。壁の消失。ネットワーク。統合。地球政府・統合エネルギー・言語ビッグバン。粘菌。個人から関係化へ。

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夜:深呼吸学部

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橘川・田原のメタチャットから。関係性の共同体へ、個人から関係性へ。

メタチャットという橘川さんの新発明は、テキストベースで相手の発言を時間をかけて吟味し、反応する。それを繰り返すことによって、ものごとも本質に迫ることができるや新しいやり方だ。

一人で文章書くよりも、相手に触発される機会が多くなるので、思想がより鮮明に立ち上がってくる。また、2人が向き合ったリアルな対談よりも、時間的に一拍置くことによって、思考が深まり、より深い対話になる可能性があることがわかった。

以下、田原さんが引き出した橘川さんの発言から。

社会を生きるから時代を生きるへ。他人は自分の可能性、自分は他人の可能性。振り子は左右にも内外にも揺れる。本質は時代、外側が社会。Wikiは死んだ情報の積み木細工。fbはキャンパスの部室、テハウス。twitterは街頭、動的wiki、動的集合知、大ブレスト、人類の可能性の坩堝、集合知集合知の可能性、集団頭脳、バンドのセッション。オンラインとリアル。結んで(結晶化)と開く(メディア・言葉・商品)。ライブ感。振り子の速度を速めると意外な展開。自分の中の化学反応を発語。反応。深くは考えない。内容の深さと言葉の平易さのギャップ。韻文のトレーニング。自分に問いかけ、自分に語りかける。全ては関係性の中にある。可能性を眠らせている奴の耳元でささやき叩き起こす。存在を変えてしまうような言葉。自分の存在をかけて相手の存在と向き合う。正しいことではなく本当のことを伝えよ。答えは死、問いはみずみずしい生。自分がわからなかったこと、できなかったことをゆだねることが教育。

ヨガ1時間。散歩で0.9万歩。

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「名言との対話」2月26日。河東碧悟桐「たとふれば独楽のはじける如くなり」

河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年明治6年)2月26日 - 1937年昭和12年)2月1日)は、日本俳人随筆家。本名は秉五郎。 享年64。

愛媛県松山市生まれ。中学同級生の高濱清(後の高浜虚子)とともに、6歳で知った同郷の正岡子規に兄事し野球と俳句を学ぶ。大学生の子規と中学生の虚子と碧悟桐である。二人は三高から二高に編入、中退。

日本新聞社に入社。24歳、入院中に心を寄せていた下宿の娘は虚子と結婚する。27歳、「ホトトギス」に入社し虚子を助ける。子規の死にともなって、30歳、新聞「日本」俳句蘭の選者の子規の後任となるが、虚子と碧悟桐はしばしば論争するようになる。

33歳、17カ月の全国行脚で「一日一信」(のち「三千里」)を「日本」に発表。豊前中津、耶馬渓も訪れている。再び「続三千里の旅」を敢行、38歳で完結した。その後、新傾向俳句を提唱するが、「ホトトギス」は、これを俳句破壊として位置付けた。碧悟桐は定型、季語にとらわれず自由律俳句、ルビ俳句に挑んでいき、虚子とたもとを分かつ。

45歳では中国旅行、さらに48歳にはヨーロッパ、アメリカを巡遊する。50歳、満州朝鮮紀行。54歳、日本各地を巡遊し、和歌と俳句の領域撤廃をめざし、短詩を提唱している。還暦祝賀会で俳句からの引退を発表。

中塚唯人・日野百草編『碧悟桐句集』(海紅文庫)をkindle版で読んだ。

碧悟桐は、膨大な仕事をした人である。句風を常に変化させ続けた。何度も生まれ変わった。感激するとどんどん入っていける自己革新の人であった。「調和」を主とする虚子は正統の保守派であった。

碧悟桐の代表作として有名な句は「赤い椿白い椿と落ちにけり」だ。この句は俳句の大衆化の象徴だった。以下、碧悟桐の初期の句。

 春さむし水田の上の根なし雲

 清水汲んで君を思ふべき別れかな

 乳あらわに女房の単衣襟浅き

 おしろいの首筋寒し梅二月

 馬過ぐる四谷見附や雪の朝

新傾向俳句の時代の句のいくつかをあげてみよう。季語にこだわらないため、題材が人事に寄っていて、それが強みとなっている感がある。

 山吹咲く工女が窓々の長屋

 炭挽く手袋の手して母よ

 お前と酒を飲む卒業の子の話

 最後の話になる兄よ弟よこの火鉢

 弟を裏切る兄それが私である師走

 三家族の揃うた朝の新豆むしる

 水道が来たのを出し放してある

 大根を煮た夕飯の子供達の中にをる

「覚醒的自我による動的自然描写」「万有は季語であらねばならぬ」など言葉が印象に残った。

姪の回想で碧悟桐の日常が記されていた。火鉢一つだけ書斎に持っていく。冬は椅子に腰かけて足から膝上まで毛布をかけて執筆する。夏はズボン下とランニングシャツで原稿を書く。おしゃれは人であったそうだ。

碧悟桐の年譜を追うと、句風がどんどんかわっている。その都度、生活を一変し、のめり込んで業績を打ち立てる。すぐれた俳人の数人の仕事をした、豊かなエネルギーの噴出するタイプの人であると感じた。

碧悟桐はまた旅の俳人であった。二度の日本各地を訪ねる大旅行、それ以外にも小さな旅を積み重ね、句を詠んでいる。そして中国も旅する。そしてヨーロッパを周遊し、帰りにはアメリカをみている。再度の欧米旅行も企画していた。旅の俳人であった芭蕉にも比すべき俳人だった。

虚子とは愛憎の生涯だったのではないか。中学の同級生で、俳句の道に志した親友は、恋愛のライバルとなり、一緒に研鑽を積んだ俳句の道でもやがて袂を分かつようになる。自由律俳句は、ある種の天才でなければ、駄句にになる可能性が多く、危険だから、主流にはならなかったと思う。

碧悟桐がなくなった時の虚子の追悼句は「たとふれば独楽のはじける如くなり」だった。始終まわり続け、はじけるような勢いで立っている独楽のような人であり、人生だったとの感慨を詠んでいる。

 

参考:中塚唯人・日野百草編『碧悟桐句集』(海紅文庫)