アマゾンKDPで「図解塾」第1期レポートを刊行。

アマゾンKDPで「図解塾」第1期レポートを刊行しました。

以下、前書き。

 

「図解塾」の開講は3回目です。

最初は1995年から2年近くにわたり、東京の日本航空勤務時代にリアルで月2回開講したビジネスマン対象の「図解塾」で、その成果は1997年に『図解の技術・表現の技術』(ダイヤモンド社)として結実しています。

2回目は、転身した仙台の宮城大学時代に到来したインターネットの黎明期の2000年前後に学内ベンチャーサークル・デュナミス主宰の「インターネット図解塾」を第8期まで有料で開講しました。2006年からはリニューアルして再開、添削も行いました。塾生は全国から集まりました。

そして3回目は、コロナ禍で一気に花開いたリモート時代の武器、Zoomを使った2020年からの「Zoom図解塾」です。

メディア環境が一変する時期に、新しいメディアを駆使しながら図解塾を発展させてきた感もあります。

今回はYAMI大学(田口ランディ学長)の深呼吸学部(橘川幸夫学部長)「図解学科」を主宰し、リモートで図解塾を開講しました。

図解コミュニケーションの理論を学び、毎回実践しながら腕を磨き、最終的には、「私の仕事」の図解を完成させることを目標としました。入門編の位置づけです。

塾生は私が2020年から刊行を始めた『図解コミュニケーション全集』第1巻のクラウドファンディングで支援していただいた方へのリターンとしての参加者、メルマガ「久恒啓一の学びの軌跡」の読者、「インターネット図解塾」の受講経験者、深呼吸学部生、noteでの募集で集まった人など20 名のメンバーとなりました。年齢は20代から80代の男女、大学教授、社長、ビジネスマン、公務員、経営者、教員経験者、子育て中のママなど実に多彩な塾生が切磋琢磨する塾となりました。

2020年9月から年末まで、課外授業も含め計7回となりました。この過程でフェイスブックのグループを用いたプレゼンなどの方法、iPadを用いた指導方法なども編み出しました。

この図解塾は、2期、3期、4期と現在も継続しており、図解コミュニケーションを学ぶ、図解アルチザン(職人)を育てるプラットフォームになりつつあり、私も全力であたっています。

このたび第1期の報告書を刊行します。続けて2期以降の実績も刊行してまいります。   

                                2022年2月    久恒啓一「図解塾」塾長 久恒啓一  

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「名言との対話」2月28日。山川惣治「日本人は、どんなことがあってもへこたれないのだ」

山川 惣治(やまかわ そうじ、1908年2月28日 - 1992年12月17日)は主に昭和20年代(1945年から1954年)から昭和30年代(1955年から1964年)に活躍した紙芝居参加、絵物語作家。享年84。


福島県郡山市生まれ。日本大学芸術科美術部を卒業。1932 年、紙芝居配球会社を設立し、『少年タイガー』が爆発的にヒット。紙芝居『少年王者』がを集英社絵物語として単行本で描き下ろしたところ大ヒットし、集英社は大出版社としての経営の礎を築いた。山川惣治は戦後の1950年代前半の月刊少年雑誌絵物語ブームを牽引する絵物語作家の代表格として活躍した。

1951年より産業経済新聞((産経新聞」)で連載された『少年ケニヤ』は大きなブームを呼ぶ。アフリカの密林で活躍する主人公ワタル少年の物語だ。

1954年には長者番付で画家部門の1位になる。絵物語は1950年代後半になるとコマ割り漫画の人気にとって代わられて人気が退潮。山川は絵物語復権の夢をかけて、1967年にタイガー書房を設立して、8月から絵物語雑誌『ワイルド』を創刊するが倒産の憂き目にあう。山川は第一線を退いて、横浜市根岸でドルフィンというレストランを経営。1982年秋頃に山川は手形詐欺にあい破産。

1983年、角川書店にて大量の復刻版文庫と映画によるメディアミックスが開始される。角川書店の新創刊の月刊誌「小説王」にて15年ぶりの新作「十三妹」連載。1984年に角川書店が『少年ケニヤ』をアニメ映画化された。

2008年に訪問した手塚治虫記念館では漫画の歴史を展示していた。鳥獣戯画が漫画の原点、北斎漫画、地獄草子、と鎌倉時代の地獄草子、江戸時代の鳥羽絵本、明治時代のポンチ絵(日清から日露にかけて戯画錦絵を描いた浮世絵師の描いた石版刷り小型マンガ本。近代漫画の出発点)、明治の宮武外骨の「滑稽新聞」、職業漫画家第一号の北沢楽天の「東京パック」、小杉未醒の「コマ画」、そして大正時代に朝日新聞で活躍した漫画記者・岡本一平、4コマ漫画の最初の作品である「ノンキナトウサン」(報知新聞)と続く。漫画にも長い歴史と人物が連なっていると感じたものだ。

そして戦後の1950年代から子供向けの「紙芝居」が流行する。自転車に乗ったおじさんが絵と語りと駄菓子で楽しませる、日本独特の芸能である。「黄金バット」や山川惣治の「少年タイガー」などが人気になる。それがやがてイ絵物語へとなっていき、それが貸本漫画へとつながっていった、紙芝居の絵と、裏に書かれた文章を並べたものが絵物語だ。このあたりは、神社の境内でみた紙芝居、近所の貸本屋という私の少年時代の体験と重なる。この紙芝居から絵物語の流れの中で活躍したのが山川惣治だった。

少年ケニヤ」は、大東亜戦争中にイギリスの植民地であったアフリカのケニアの日本人商社マンの息子・ケニアが密林ではぐれた父をさがす物語だ。ラジオ、映画、テレビでも放送、放映された。「少年ケニヤ」では、「日本人は、どんなことがあってもへこたれないのだ」「日本人の子はやっぱり強い」といったセリフがある。敗戦後、意気消沈していた空気の中で、日本の子どもの心に強く訴えたのだろう。私もその一人だった。