北村謹次郎ーー「今様光悦」がつくった美術館

北村美術館(京都)。

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奈良県生まれ。日本の山林王、北村又左衛門家の次男。金沢の第四高等学校経て京都大学へ進む。書画、版画、写真、歌舞音曲をよくしたコレクターとして、「今様光悦」とも呼ばれた人である。

「山紫に水明らかな処」と頼山陽が讃えた景勝の地につくった四君子苑。菊の高貴、竹の剛直、梅の清冽、蘭の芳香。これが中国では四君子といわれた。それぞれの頭文字が「きたむら」と読めるので、採用した。京都数寄屋の名棟梁・北村捨次郎と出会い。北村が40歳の時に完成したが、進駐軍の接収で戻って来た時には荒れ果てていた。近代数寄屋建築の吉田五十八が改築した。

『北村美術館 四季の茶道具』(北村美術館館長・木村収)と『四君子苑の庭と石』(北村美術館)を子入試読んでみた。

洋風庭園のように設計図による庭ではなく、材料によって作らされた庭である。ここで生涯で四度の茶事と、大文字送り火の茶会を始めとする数多くの茶会を催した。

古希を記念して設立して美術館を建てている。訪問した時には残念ながら庭は見ことが出来なかった。この庭園の第一の特色は、石造りの美術品にある。現在の収蔵品は、重要文化財33点、重要美術品9点を始め、総点数は1000点ほどである。特に石の収集物は素晴らしい。重要文化財3点を含む灯籠、石塔などは日本一であると自負している。北村はいわゆる普請道楽であった

お茶の美術館だ。「茶道は総合芸術であって、道具だけでなく、茶法だけでなく、それこそ、庭の一木一草までもがすべて呼応しあうものだ」。

茶道具は、ハレの道具とケの道具に分けられる。ハレは釜など茶席の道具で、ケは水屋で使われる道具である。お茶の世界は不完全な道具が集まって世界を形作る。それは連歌などにみるように日本の伝統だ。

北村は鴨川に面する四君子苑の広間で茶席を持った。ここからは大文字送り火が見える。北村が一番苦労するのは、道具の取り合わせではない。「そりゃあ客でっせ」が北村の答えだった。客の茶人としてのレベルや考えた組み合わせの妙である。「生ぶ表具に優るものはなし」。若い時はちょっと派手好みであったが、だが歳をとって利休や遠州の表具を好んだ。「けちっては駄目、張り込んだら張り込むだけの値打ちがあります」

 

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都内の出版社に人を紹介。社長と久しぶりに面談。

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「名言との対話」4月8日。山下長「何とか国産の顕微鏡を作りたい」

山下 長(やました たけし、1889年4月8日-1959年2月5日)は、日本の実業家

鹿児島県奄美市出身。名瀬の高等小学校で3年間学んだ後、鹿児島の本家にひきとられて中学造士館に入る。第三高等学校 を経て、1915年東京帝国大学法科大学うぃ卒業し弁護士となる。

実業界に転じ親戚の松方正義関連の五男・五郎が経営する常盤商会に入社し、砂糖部長としてジャワの砂糖取引で成果をあげる。その後、高千穂製作所を設立し専務に就任。

オリンパスの商標で国産顕微鏡や体温計を製造する。関東大震災で経営が悪化し、1925年に再建し、1934年、高千穂製作所社長に就任。1935年には瑞穂光学研究所を設立しカメラの製造にも乗り出し、翌年セミオリンパスを開発。

1939年、社長を辞任。代表取締役として残留した後、1940年に高千穂製作所を退社。日真光学を設立して社長となり、敗戦まで顕微鏡製造を続けた。なお、高千穂製作所はその後、高千穂光学工業、オリンパス光学工業と改称し、オリンパスとなった。

「ただ外国製品の模倣ではいけない。何か高千穂独自のものを生み出せ」と、技術者を激励。「何とか国産の顕微鏡を作りたい」という夢は、会社創立から半年後の1920年3月、初めて製造した顕微鏡、「旭号」で実現した。30年後には世界で初めて胃カメラを実用化することにも成功している。

模倣ではなく独自のものを創造せよ。舶来をありあがたがるのではなく優れた国産品をつくりだせ。これが山下長の執念だった。

創業当時の「株式会社高千穂製作所」の時代から「オリンパス」という商号を使った。日本の神話では高千穂の峰に八百万の神がいる高天原があるいう日本の神話から「高千穂」を用い、西洋のギリシャ神話の山、Olympus」をとった。「世界に通用する製品を作る」と気宇壮大な構えであった。

山下長は友人で顕微鏡の開発に没頭していた寺田新太郎とともに、顕微鏡の開発に生涯を捧げた。30年後の1950年には世界で初めて胃カメラを実用化することにも成功している。我々が人間ドックでお世話になっている胃カメラも寺田長らのおかげである。