『トーマス・マン日記 1944-1946』ーー広島への原爆投下の8月7日からポツダム宣言受諾の8月15日までの記述が興味深い。

先日の古本市で手にした『トーマス・マン日記。 1944-1946』を少しづつ、読んでいる。

トーマス・マンノーベル文学賞を受賞した文学者。ドイツ人。ヒトラーの台頭で迫害され、アメリカに移住。第二次大戦中なので、欧州戦線の記述が多い。特に、祖国ドイツとヒトラーに関する記述が多い。

 

1945年の日本のポツダム宣言受諾の前から8月15日までの日記に日本の事が記されている。当時の日本がアメリカからはどう見えていたかわかる。以下、マンの記述をピックアップ。

  • 8月7日「新聞は原子爆弾と、多くのユダヤ人学者が登場するその発明の物語の記事を満載している。」
  • 8月8日「原子爆弾による広島市の不気味な破壊について。」
  • 8月9日「二番目の(あるいはいくつかめの)原子爆弾長崎市に投下。天に向かって巨大なきのこ雲。ロシアと日本戦闘、満州国での展開。」
  • 8月10日「日本の降伏についての不確かないうわさと電話情報(レイデ)。確認されたのは、スウェーデンとスイスを通じて「天皇の命により」降伏の申し出があったことと、唯一の条件が天皇家の存続ということ。この件について連合国で協議。「社会上、宗教上の制度の保護」という決まり文句を使って、実際はすでに約束があった。しかし世論のはげしい反発にあった。上院議員たちは電報攻めにあった。国も人も原子爆弾で破壊せよという希望。」
  • 8月11日「日本に対して、勝者の命令に同意できるためにミカドの存続が許される旨と、民族自身でのちに天皇家の存続を決定していいという条件が示された。十三歳の皇太子が前面に押し出される。」
  • 8月12日「日本の回答が待たれる。どうやら内部に深刻な闘争があるらしい。少なくとも精神的な。天皇の自殺もありうると言われている。」
  • 8月13日「日本はまだ決断しない。」
  • 8月15日「新聞は、諸都市で大衆が激しい喜びをぶちまける様子を伝える記事であふれている。日本、悲劇的にしてグロテスク。陸軍大臣の自殺、支配者に対する奉公に足らざるところがあったためだという。皇居前には、赦しを請い、身をかがめるおおぜいの人々。そこには敗北を一時的なものと考えよ、決して、決して忘れるな、復讐せよ、などといった、いかにも無分別な公然たる脅迫がある。」

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1944年から1946年ということは第二次世界大戦の真っただ中であり、戦争や政治のこともでてくる。またマン自身は70歳前後ということになる。

辻邦夫と北杜夫の2人の共通項はトーマス・マンである。マンの師匠はゲーテだということだ。北杜夫は敬愛するトーマス・マンについて「マンは一語一語言葉を厳密に選びだす作業を午前中だけつづけ、いかに感興がのろうと、午後になればこれを打ち切ってしまう。」「神聖な午前」と言っている。日記を読んでいると、それがよくわかる。

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人生100年時代

  • 2020年の国勢調査。100歳以上は約8万人。105歳以上は6515人、110歳以上は141人。(日経夕刊4月30日)
  • ギネス認定の存命中の世界最高齢の田中力子さんが福岡市で119歳で亡くなった。日本の歴代最高齢。4月19日。泉重千代さんの120歳は、2012年に取り消された。

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「名言との対話」5月1日。岩崎與八郎「ミイラとりがミイラになった」

岩崎 與八郎(いわさき よはちろう、1902年(明治35年)5月1日 - 1993年(平成5年)12月28日)は、実業家で、岩崎産業グループの創業者である。

鹿児島県出身。14歳で社会にでる。1922年、岩崎商店を設立。1923年、関東大震災鉄道省の納入業者になり、日本一の枕木納入業者になる。逓信省から郵便事業の許可を取得。1940年、岩崎産業第二次世界大戦で大陸で枕木納入業で成功、金鉱山、造船、鉄工業にも進出。

戦後は、朝鮮戦争で鉄道復旧に枕木が必要となる。岩崎は業績低迷の事業を次々と手にいれる。南薩鉄道、鹿児島交通(バス)、屋久島丸の建造(船)、指宿観光ホテルの開業、いわさきゴルフクラブ開聞岳コースの開発、佐多岬ロードパークの建設、そして箱根、伊豆、久住でのホテルなど、運輸観光業に進出し成功をおさめていく。

鹿児島を国際観光都市にすべく、1968年からオーストラリアに狙いを定める。紆余曲折はあったが、最初の構想から18年後にキャプコーン・イワサキ・リゾートが開業する。鹿児島商工会議所の会頭も経験するなど、大御所となった。

岩崎與八郎は自身が教育を受けられなかったことから、郷里の人材の育成に熱心に取り組んでいる。後の県立岩川高校、鹿児島大学医学部、鹿児島大学工学部の前身の学校を設立している。また東京に鹿児島の学生のための学生寮を建設、運営した。指宿観光ホテルの敷地内には岩崎美術館・工芸館を建てている。

オーストラリアでのリゾート開発という大事業を完成させているが、「ミイラとりがミイラになった」と語っている。もともとは、地元の政治や行政からの依頼で、相手を説得しようと乗り出したのだが、結果的に相手に説得された形になった。18年という長い時間がかかり、心血を注いだライフワークと呼ぶべきプロジェクトになった。本望であっただろう。

岩崎産業1922年の創業であり、ちょうど100年だ。現在の岩崎産業ホームページをみると「鹿児島の魅力を国内外へ、地方(ローカル)から世界(インターナショナル)へ発信しているいわさきグループ」とあり、「インターローカル企業」と名乗っている。国際的な地方企業という意味だろう。

岩崎與八郎は、事業での成功を土台に、その余慶を人材育成、文化芸術の振興などにいきわたらせた傑物である。91歳の生涯は見事としか言いようがない。