野田九浦ーー「歴史人物画」の大家。「春塵や遅筆に画絹白きまま」

長池公園のライブに出会いました。

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吉祥寺美術館(武蔵野市立)の「野田九浦」展。

子規に俳句を学び、漱石の小説の挿絵を描き、生涯にわたって「歴史人物画」をテーマにした人である。50年近くの年月を吉祥寺で過ごした。武蔵野市の美術館構想の端緒となった人である。

1879年生まれで1971年に91歳で昇天した野田九浦の生涯は、10代から60代まで常に戦争があった。日清戦争(1894-1895)、日露戦争(1904-1905)、日中戦争(1937-1945)、第二次世界大戦(1939-1945)。

舞鶴の九景は「九景ヶ浦」として知られた。それを父が号としてくれた。f:id:k-hisatune:20220502224635j:image

1907年の第1回文展の最高位を獲得した、日蓮を描いた「辻説法」。日蓮に関する書物はほとんど読んだうえでの描写である。

日本画に於ける線、此線は作家の全生命が此線一本に仮託されるといっても過言ではない線」・

師の寺崎廣業(1866-1919。東京美術学校教授。美人画と風景画)の影響で、旅行が多い。廣業の北海道旅行中にそのまま弟子入りした。母は「人に見込まれて、その才能を見つけてもらって、引っ張ってもらったら、それが一番だ」。

正岡子規に俳句を学ぶ。「下駄を干す下宿の庭や葉鶏頭」「春塵や遅筆に画絹白きまま」。俳号の「道三」は子規の命名。本名の読みをかえたもの。

夏目漱石の小説「坑夫」の挿絵を担当。

「日向御聖蹟絵巻」全3巻(天の巻。地の巻、人の巻)。「雪舟」。「雪舟以前に雪舟なく。雪舟以後に雪舟を見ず、と云った、後人の表現も過言ではない」

「河霞む」。「相撲」。「山荘における廣業先生」。「忠誠(楠木正成)」。「猿蓑選者」。「司馬江漢」。「獺祭書屋(子規は獺祭書屋主人が号)」。「神武天皇御東征」。しみじみと対話するという肖像画である。

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「K氏愛猫」(自画像)。1964年の84歳には「落柿舎のあるじ」を出品。松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘。

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夜は30分づつのズーム3連発

・デメケン:「1000館」

・力丸:知研

・深呼吸学部:「名館ミシュラン」「遅咲き偉人伝」

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「名言との対話」5月2日。樋口一葉あの源氏物語は立派な作品ですが、私と同じ女性です。あの作品の後に、それに匹敵する作品が出てこないのは、書こうとする人が出てこないからです。今の時代には今の時代のことを書き写す力のある人が出て、今の時代のことを後世に伝えるべきであるのに、そんな気持ちを持った人が全くいないのです。」

樋口 一葉(ひぐち いちよう、1872年 5月2日(明治5年3月25日)- 1896年(明治29年)11月23日)は、日本の小説家。 

本名の奈津、一時用いていた夏子、そして小説「闇桜」から一葉というペンネームを使い始める。インドの達磨大師が中国揚子江を一葉の芦の葉に乗って下ったという故事に因んだものだ。浮世の波間に漂う舟という意識を持っていて「達磨さんも私も“おあし(銭)がない”」としゃれていたという。

金港堂の雑誌「都の花」に「埋もれ木」を執筆し、20歳で文壇に登場する。この原稿料は11円75銭だった。一か月7円の生活を送っていた樋口家には大金だった。雑誌「文学界」に上田敏島崎藤村北村透谷らとともに参加した平田禿木が、一葉の「埋もれ木」に感激し、文学界で活躍するようになった。

1894年12月の「大つごもり」、1895年1月の「たけくらべ」、4月の「軒もる月」、5月の「ゆく雲」、8月の「うつせみ」、9月の「雨の夜、月の夜」、9月の「にごりえ」、12月の「十三夜」、1896年1月の「この子」、1月の「わかれ道」、1月には「たけくらべ」完結、2月の「裏紫」と一気に名作を世に送っている。まさに「奇蹟の十四ヶ月」(和田芳恵)である。

一葉は利発で小学校高等科第四級を首席で卒業しているが、「女が学問を身につけるのは好ましくない」という母親の強い反対で進学を断念している。「死ぬ斗悲しかりしかど、学校は止になり」と日記に記している。後に一葉は、私の学校は歌塾「萩の舎」と東京図書館でしたと語っている。中島歌子の萩の舎では、上流階級の娘が多く、下級官吏の娘で古着をまとった自分が最高点をとったなどと「一葉日記」にも記されている。歌子の助教を務めるまでになっており、一葉は短い生涯で4千首の和歌を詠んでいる。1887年の発表記念会の写真では、細おもての一葉の顔を見ることができる。

父や長男を失った樋口家は、55歳の母、32歳の姉、23歳の次兄を養う戸主に17歳の一葉をたてる。萩の舎で4つ上の姉弟子だった三宅花圃が書いた処女小説で、原稿料が33円20銭だったことを知り刺激を受け、貧しい一葉は小説を書くことに興味を持った。一葉は、家族の生活を支えるために小説を書く決心をし、朝日新聞の小説および雑誌担当記者だった半井桃水に師事する。桃水の指導を受けたが、二人の仲をうわさするものもあり、一葉の方から絶好の手紙を送っている。その手紙の文面も掲示してあった。一葉の大事な恋だったのではないだろうかと不憫に感じる。

東京台東区竜泉の一葉記念館を訪ねるが、残念なことに建て替え工事中だった。記念館のある小路には、手焼きの「一葉せんべえ」を売る店や、「一葉泉」と名乗るクリーニング屋があった。そのせんべえ屋は一葉が住む前からここでこの商売をしていたとのことだった。

2006年11月に開館予定の記念館が建つまでの間、台東区生涯学習センター3階に仮設の展示施設が設置してあるとのことだったので、そちらを訪問する。このセンターは合羽橋という道具屋街にあった。

一葉が住んでいた竜泉寺町の大音寺通りの地図が目に入った。荒物や駄菓子を商っていた長屋の自宅の右隣は、酒屋、魚屋、床屋、たび屋、いも屋などがあり、左隣には人力宿屋、建具屋、おけ屋、たばこ屋、質屋などが並んでいる。向かいは下駄屋、たび屋、豆腐屋、傘屋、だがし屋、筆屋、べっこう屋など。この大音寺通りの先にお歯ぐろどぶがあり、その先に遊郭で有名な吉原があった。糊口の文学から脱して生活を支えるために、商いをすることを決心する若い一葉は友人の目に届かないこの場所を選んだ。貧しさのために勉学や優れた才能を充分に生かせない社会に不条理を感じた。

この記念館には友人、恩師などへあてた一葉の手紙が多く展示されている。「私は生まれつき不調法で有り難いことを有り難いように言葉にも出せず、筆を執っても同様でただ心の中で思って居るだけなのでございます」と三宅花圃に書き送っている。それぞれに墨で書かれた手紙と、現代語訳があり、若い一葉の苦しみ、悲しみ、こころの動きがそのまま伝わってくるようだ。

訪問記念に買った完全現代語訳「樋口一葉日記」を読みながら、恋と文学と借金で彩られた薄幸の天才作家・樋口一葉の心を深く旅をしたいと思った。以下、「一葉日記」から。

 ・たとえつまらない小説ではあっても、私が筆をとるのは真心からのことです。

・ 一番大切なことは親兄弟の為にすることです。

・ この世を生きていくために、そろばんを持ち汗を流して商売というものを始めようと思う。

・ すっかり怠けてしまったこの日記よ。

・ このような時代に生まれた者として、何もしないで一生を終えてよいのでしょうか。何をなすべきかを考え、その道をひたすら進んで行くだけです。

・ 青竹を二つ割りにするように、あっさりとした気持ちで言ってみるだけのことだ。

・ 務めとは行いであり、行いは徳です。徳が積もって人に感動を与え、この感動が一生を貫き、さらには百代にわたり、風雨霜雪も打ち砕くことも出来ず、その一語一語が世のため人のためになるものです。

・ もし大事をなすに足るとお思いになりましたら経済的な援助をお与え下さい。

・ 世の中というものは本当にわからない所ですから、ただ見た目や噂だけでは信用できません。

・ 才能は生まれつき備わっているもので、徳は努力して養うものです。

・ 紫式部は天地のいとし子で、清少納言霜降る野辺の捨て子の身の上であると言えるでしょう。

・ 世の中はいつも変わるものなのに、変わらないのは私の貧乏と彼の裕福だけ。

・ ようやく世間に名を知られ来て、珍しげにうるさい程もてはやされる。嬉しいことだといってよかろうか。これもただ目の前の煙のようなもので、私自身は昨日の私と何の違いがあろう。

・ 私の小さな舟は流れに乗ってしまったのです。波の底の隠れ岩に舟が当たって壊れない限り、もう引き戻すことは出来ない。

・極みなき大海原に出にけりやらばや小舟波のままに

・ 毎日私を訪ねてくる人は、花や蝶のように美しい人々ばかり。、、、人々が寝静まった夜更けに静かに思えば、私は昔のままの私であり、家も昔のままなのに、、、

・ 私を訪ねて来る人は十人中九人までは、私が女性であるということを喜んで、もの珍しさで集まって来るのです。

・ ともかく、これは一時の虚名を利用して、本屋はもうけ、作者も収入を得るためだけのことです。

・ しかし、どうして今さら世間の評判など。

「一葉日記」は一葉の代表作である。完全現代語訳の「樋口一葉日記」(高橋和彦)を読み終える。16歳(1887年)から亡くなる25歳(1896年)までの9年間の日常や想いを綴った作品である。2段印刷で450頁ほどある。「恋と文学と借金」に彩られた作品で、一葉の人となりや考え方、姿勢などがよくわかる。一葉は可愛そうなくらい心のきれいな女性だと思った。

一家の責任を果たそうという気概、文学への取り組み、世間というものへの醒めた眼差し、親孝行のための借金、萩の舎という歌塾での稽古の様子、鴎外・緑雨・禿木・露伴などとの交遊、桃水との恋の葛藤、一日10冊を読んだこともある読書の習慣、上野や本郷・竜泉寺を中心とする東京の様子、雑誌への小説の寄稿などの経緯、人々との会話の詳細な内容、地震や雨の多い東京の様子、お金の話、、、、、。

・私のは古着ではあっても親からの贈り物だと思うと、ほのぼのと嬉しい思いがする。

・思いの溢れることを書き記すことにします。

・例によって、小説気違いなので、夜十時まで読み耽って、十冊ほど読む。

図書館は、いつ来ても男子は非常に多いが、女子の閲覧者が殆ど一人もいないのは不思議な気がする。

・人間として忍耐ということは、どんな宝よりも立派なものだと思う。

・命ある限りはどんな苦しみにも耐え、頑張って学問をしたいと思う。

・田中みの子さんが私に「遠慮の姫」と仇名をつけて笑ったりなさる。

・思いのままに書き続けて行くと、人のかげ口ばかりのようになって、自分でも何だか情けない思いです。

・世間にはどうして、大金持ちで暇をもてあます人が、こんなにものどかに暮らしているのだろうか。

・古今の有名な物語や小説を見る度に、自分の文章のまずさが我ながら悲しくなり、、、

・今日から小説を一日に一回分ずつ書くのを勤めとする。一回分書かない日は黒点をつけようと定める。

・一度読んだらすぐに屑篭に捨てられるような、そんな作品は書くまいと思っているのです。

・千年の後にまで残そうとする大切な名声を、ただ一時的な奢りや栄達でどうして汚してしまうことができようか。

・私は言いにくかったのですが、思い切って借金のことを申し出たのです。恥ずかしさに顔が燃えるようでした。

・一番大切なことは親兄弟の為や家の為にすることです。

韓非子」の「説難」の篇は胸に突き刺さる程の感銘を受けた。

・母上に安らかな生活を与え、妹に良縁を与えることが出来るなら、私は路傍にも寝ようし乞食にもなろう。

・入るお金は四百字一枚が僅か三十銭になるにすぎない。

・恋は尊くもあり、また浅ましく惨めでもある。

・夜、家族みなで相談して商売を始めることに決定する。

・この世を生きて行くために、そろばんを持ち汗を流して商売というものを始めようと思う。

・そして暇ができたら月もみよう花もみよう、興が湧いたら歌も詠もう文章も書こう、また小説も作ろう。

・このまま落ちぶれ果ててしまって、一生涯あのお方にお会いすることも出来ず、忘れられてしまって、私の恋は流れる雲のように空しく消えてしまうのだろうか。

・すっかり怠けてしまったこの日記よ。

・このような時代に生れ合わせた者として、何もしないで一生を終えてようのでしょうか。何をなすべきかを考え、その道をひたすら歩んで行くだけです。

・昔の賢人たちは心の誠を第一として現実の人の世に生きる務めを励んできたのです。務めとは行いであり、行いは徳です。徳が積もって人に感動を与え、この感動が一生を貫き、さらには百代にわたり、風雨霜雪も打ち砕くことも出来ず、その一語一句が世のため人のためになるものです。

それが滾々として流れ広まり、濁を清に変え、人生の価値判断の基準となるのです。

・力もない女が何を思い立ったところでどうにもならないとは分かってはいるが、私は今日一日だけの安楽にふけって百年後の憂えを考えないものではない。

・邦子が私のことを「なま物知りのえせ者」と非難するのを聞くと、本当にそう見えるのだろうと恥ずかしい思いです。

・何といっても安心できるのは、独り静かに昔の書物などを読むときです。

・才能はうまれつき備わっているもので、徳は努力して養うものです。

紫式部は天地のいとし子で、清少納言霜降る野辺の捨て子の身の上と言えるでしょう。

・世間の毀誉褒貶を超越して、静かに心をこめて筆墨を採る人が果たして幾人いるでしょうか。

・何と馬鹿げたことよ、私を世のすね者と言う。あるいは明治の清少納言とか女西鶴とか言う。

・世の中はいつも変わるものなのに、変わらないのは私の貧乏と彼の裕福だけ。

・まして一時の情に走り酔い、恋の炎の中に身を投げ入れている人々は、やがて相手の心変わりにつらい思いをすることでしょう。

・今の私はすべての欲望を棄て去っているので、、

・虚名あしばらくの間のことであってやがては消えてしまおうでしょう。しかし、一度人の心に抱かれた恨みは、果たして行く水のように流れ去るでしょうか。

・身を棄ててしまったら、世の中の事は何が恐ろしかろうか。

・私を訪ねて来る人は十人中九人までは、私が女性であるということを喜んで、もの珍しさで集まって来るのです。

・しかし、どうして今さら世間の評判など。
・あの源氏物語は立派な作品ですが、書いた人は私と同じ女性です。彼女が仏の生まれ代わりだとしても、やhら人間である以上、私と何の違いがありましょう。あの作品の後に、それに匹敵する作品が出てこないのは、書こうと思う人が出てこないからです。今の時代には今の時代のことを書き写す力のある人が出て、今の時代の事を後世に書き伝えるべきであるのに、そんな気持ちを持った人が全くいないのです。

 樋口一葉明治維新の直後の1872年生まれで、6歳年下の短歌の与謝野晶子学の佐々木信綱らがいる。晶子は太平洋戦争のさなかの1942年に死去。一葉と同年生まれの国文学者・佐々木信綱は戦後の東京オリンピックの前年の1963年に没している。一葉は明治時代の中葉である1896年に24歳で、あまりにも若い死を迎えている。

擬古文による最後の作家といわれる一葉の「たけくらべ」は森鴎外が絶賛したのをはじめ、正岡子規らからも評価され、女流作家として華々しい活躍をする。しかし、一葉は文名があがることへの恐れと戸惑いも感じていたらしい。一葉は、「たけくらべ」完結から1年も経たない1896年11月23日、肺結核で24歳で帰らぬ人となった。天寿を全うしていたら、どのような作品を書いたのだろうと想像する。