第1回「地域未来フェス」--「私の好きな町」というテーマで、全国から30名ほどが参加し、楽しい時間を過ごしました。

第1回「地域未来フェス」。20時から2時間。一人3分の発表で1時間半、20分の地区別のブレークアウト、10分の大集合。30人ほどの人が全国から集まり、2時間たのしく過ごしました。以下、私のメモ。

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今住んでいる町、出身地、そしてスキーなどで通っている町などを紹介し合うイベント。以下、参加者の「好きな町」

愛知県西尾市山口県岩国市。岡山県倉敷市。長野県菅平。岡山県倉敷市香川県小豆島。福井県越前町岡山県真庭市岡山県津山市京都府亀岡市岡山県倉敷市岡山県東岡山茨城県石岡市新潟県長岡市。東京都原宿。静岡県黒石市福井県小浜市。北海道標津。北海道旭川市愛媛県大洲市。東京都多摩ニュータウン京都府近江八幡市。長野県富士見町。岡山県岡山市。東京都四谷。

岡山の人が多かった。私の関係では、知研、図解塾の方々の参加があった。私は住んでいる多摩ニュータウン、南大沢、長池公園を紹介。

地元の人が紹介するのが一番そこのことがわかることがよくわかるイベントだった。この輪を広げていくと全国に新しい知り合いができることになる。広げていきたい。

FBに感想を書き込むところを用意すると、全国の人とコミュニケーションがとれるので、案内したらいいので、主催者に提案しよう。

以下、私の関係者のFBへの報告から。

  • 皆様、おつかれさまです。本日(5/3)「地域を語り合う未来フェス」へ参加、深呼吸学部、知研岡山、図解塾などに関係するメンバー25名が、「自分の好きな町」をテーマに持ち時間3分間のプレゼンテーションに挑みました(テーマ地域別内訳:北海道2、関東甲信越8、中部北陸3、近畿2、中国8、四国2)。その後各自興味ある地域に分かれ約30分間のトークセッションを実施、当方は北海道Roomへ参加。お父様の転勤で体験された昭和40年代道東の「とある街」の暮らしぶりをスナップ写真で拝見したり、アイヌ祭り、ヒグマや監獄などの話題をリアルに拝聴致しました。当方も独身時代(平成一桁)に親しんだ一人旅の記憶が鮮明に甦り、大いに盛り上がった次第です。日頃の図解塾・幸福塾でも同様ですが、このようにIT会議で集ったメンバー同士で情報を授受する事は、本やネット検索よりも遥かにリアルで確かであるという事を益々確信した次第です。おわりに当方がプレゼンした「ダボス、菅平高原、長野県」をパワポと共にご披露致します。コロナ禍となり足掛け4年が過ぎたいま、我が家の子供2人は大4/高3と夫々節目の年。GW中も相変わらずインドアに過ごす自分が「好きな場所」として思い出すのは、毎年恒例で家族と過ごしたスキー旅行での場面。コロナ禍が去って、果たして以前と同じように家族旅行は可能か…?アハっ、切なくなってしまいました。連休明け、図解塾での再会を楽しみにしております(社業も依然厳しいですが…)。ありがとうございました。

4人、立っている人、テキストの画像のようです

 

 

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「名言との対話」5月3日。大塚久雄「絵画と地図」

大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年明治40年)5月3日 - 1996年平成8年)7月9日)は、日本経済史学者。

京都出身。三高から東京帝大経済学部卒、内村鑑三に師事。法政大学教授を経て、東京帝大教授。

専攻は英国経済史で、西洋諸国における近代資本主義、近代市民社会の研究で知られた。マックス・ウェーバー社会学カール・マルクス唯物史観論の方法を用いて構築した大塚史学は国際的評価を受けた。

大塚久雄『社会科学の方法 ヴェーバーマルクス』(岩波新書)を読んでみた。

ヴェーバーの『儒教とピュリタリズム』をめぐってーーアジアの文化キリスト教」を論じた章を興味を持って読んだ。以下、ウエーバーの所論の私の理解。

社会を対象とする社会科学は、自然科学と同じように、科学として成り立つか。分業関係は自然に成り立っている場合は、自然と同じようにみることができる。人と人との社会関係は物と物との関係としてあらわれる。だから、社会科学は科学である。

社会科学は、生き生きとした現実を写し取る絵画とは違い、現実を平面に記す地図のようなものであると大塚は言っている。社会科学には人間がいないという批判もあるが、表現方法が違うのである。

この論考の中で、「儒教とピュウリタリズム」の説明がよくわかる。中国の儒教と欧米のキリスト教プロテスタントの違いを説明してくれる。

この二つの精神が持つ「人間観」が全く違う。儒教は人格の感性に向かう。その頂点が徳を吸萎えた「君子」だ。ウエーバーはそれを「gentleman」と訳している。君子は書籍による教養と修養によって君子に近づいていく。

ピュリタリズムでは人は原罪を持っている堕落している。神に赦してもらうにはそういう自己を否定し、世界の理想に向かって変革していくために厳しい自己訓練を続けることが求められる。

儒教では君子は世界秩序の理法である「道」に従うことがよしとされるから、自己変革力が弱い。君子は教養と修養によって人間を完成させていく。外面的品位を重んじ、審美的である。楽観的世界観を持っており、身分の上昇やそれに伴う富も肯定される。

ピュウリタリズムでは、平民宗教が支配層を包み込んで全体を覆うようになっていった。現世を否定する悲観主義であり、そのために神の国に近づこうと世界の根本的な変革に向かう、そこに精神的エネルギーが噴出する。担っている職業によって、生産力を高め、民衆の生活を豊かにするという隣人愛によって神の国に近づくことで、神に救ってもらおうとする。それは内面の精神と一致する。そしてそのために富を蓄積することを肯定する。

以上、儒教は順応的であり、ピュウリタリズムは変革的である、ということになる。

このような理解と説明によって、大塚久雄の研究は、「大塚史学」と個人名を冠されるほどに歓迎され、それは欧米でも高く評価された。大学時代に内村鑑三の影響を受けたことも、研究の低層を構成しているのではないだろうか。

近代における欧米の躍進と中国の長い低迷の説明として理解できた。さて、武士階級の儒教、庶民の仏教、皇室の神道という三重構造の日本の明治維新のエネルギーの噴出について、大塚史学はどのような説明をしてくれているのだろうか。

大塚久雄の言葉の中で、現実を写しととる「絵画と地図」という比喩がでてくる。浅間山雄大さや夕映えの美しさは絵画で表現できるが、浅間山に登ることはできないとういう。登るためには白黒で描かれた地図が必要なのだ。それが社会科学だとの主張である。歴史小説歴史学の違いもそれにあたるということだろう。なるほど。