「幸福塾」:本多静六。野口英世。高峰譲吉。村木良彦。力道山。大山康晴。後藤静香。荻野吟子。ベンジャミン・フランクリン。

「幸福塾」の8回目。本日、取り上げた人物は、以下。

本多静六野口英世高峰譲吉。村木良彦。力道山大山康晴。後藤静香。荻野吟子。ベンジャミン・フランクリン

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以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、みなさま、本日は幸福塾ありがとうございました。今日は「公人」としての偉人の生き方や言葉を紹介いただきました。途中PCの不具合で中抜けになってしてしまい、残念でしたが、ベンジャミン・フランクリンの「人間の幸福は小さな日常の積み重ね」といった言葉に親しみを感じました。身近な事柄の「生活哲学」に当時も人気があったとのことなので、「フランクリン自伝」も読んでみたいと思いました。また自伝に関連して福沢諭吉の「福翁自伝」もお薦めと伺い、こちらも読んでみようと思います。新しく始まったYouTubeの「遅咲き偉人伝」と併せ、今後の幸福塾の展開が楽しみです。
  • 本日もありがとうございました。倖せの構造の中の今日は「公人」ではありましたが、多様な人々の生き方を学ぶことができました。冒頭の「○○の父」「○○の母」「○○の神様」「○○の祖」「○○王」という呼称の人を集めるのも面白いなと思いました。本多静六については、収入の4分の1を貯蓄して定年になったときに匿名で全部寄付したことや、巻尺と定規を持ち歩き記録したというエピソードが印象的でした。高峰譲吉の科学的業績については知っていましたが、多くの事業を起こしたことやポトマック河畔の桜に貢献したことは新鮮でした。大山康晴については51歳で一度無冠となって、以前の立場を忘れ、その後カムバックを果たしたことも印象に残りました。人生100年時代、遅咲き人生を考えるにも、逆境をいかに乗り越えたかという例についてもっと知りたいと思いました。今回の中で一番印象的だったのは、村木良彦「自分の人生のデザイナーになろう」でした。ありがとうございました。
  • 今日はありがとうございました。本日は公人をテーマにしたこともあり、全体として硬いイメージがありました。お一人お一人の名言を拝聴し、ストイックな印象を受けました。ですが、一方でしなやかさも感じられます。何か集中できるものを見つけ、続けていくことでも幸福は得られることに気がつき、ここ最近ワクワクしていない自分にとって励みになりました。一日で一番時間をかけていることに集中したり、楽しんだりすることが幸福への第一歩なのではと思いました。エド・ディーナー「幸福というものが一つ以上のものを意味するということをもっと真剣に考えてみよう」⇨たまたま知ったフレーズです。人の数だけ幸福があることと、幸福はカテゴライズできることは、正反対かもしれないけど、その両方が共存しているのだから、名言をじっくり味わったり、俯瞰したりで、幸福そのものを包括的に捉えていくことなのだと、気づかされた次第です。
  • 本日もありがとうございました。倖せの構造の公人の1回目の講義でした。本多静六の生活の方向が登り坂なのが幸福だと。いうこと。出発はみなそれぞれなので、毎日少しでも坂を上っていきたいと思いました。また、野口英世が、何かをなさんがために売り込む人だった。というのはもっていたイメージと違いびっくりしたのですが、「天才ではなく、あるのは努力だけだ!」ということで、何事も動く人だったんだと納得しました。大山康晴さんも将棋会館を作るために飛び込み営業していたと聞き、知らない一面をたくさん聞くことができました。荻野吟子さん、すごいですね。女性初がつく方々のお話ももっと聞きたいと思いました。ご紹介いただいた方々は、とにかくエネルギーがものすごかったです。やるべき、やりたい仕事に打ち込み、成果も出し、それに、幸福を感じていたのでしょうか。次回も公人ですね。どうぞよろしくお願いいたします。
  • 皆様、おつかれさまです。GW中、BS NHKで放映された番組に「幸福の気付き」がありましたのでパワポ化致しました。情報鮮度落ち気味ですが、今週の幸福塾に向けて先行提出致します。よくある学生サークルでの思い出作りに行われた「小さなプロジェクト」が卒業8年後にYoutubeで話題となったというお話。廃校が決定した長野県飯田市の工業高校では、「最後の卒業制作」として「成層圏の映像撮影」に挑戦、カナダの学生が「気象観測バルーン」を使って取組んだ映像が当時話題で、「俺たちも」と彼らは軽いノリで着手。しかし流石に工業高校、「法令順守・落下点予測」「飛翔体・筐体」「通信・記録」の3班に分かれて綿密に準備を進めます。福井県九頭竜川河川敷にて放球、しかし残念なことに飛行経路は計画から外れ見失い、それきり冴えない幕切れのまま彼らは卒業しその後別々の道へ。それから8年、埼玉県の林業業者から「木に引っ掛かったパラシュートとビデオカメラを収めた筐体を発見」との知らせが指導教諭のもとに届き、久しぶりに仲間たちは再会、回収されたビデオカメラにはあの日の青い地球の映像が、というハナシ。今や26歳となった彼らは生きるフィールドも価値観も様々ですが、「ひとつの縁」で集い、懸命に取り組んだ「仲間との絆」や、長い風雪に耐えた「技の確かさ」は今の自分達に繋がっているという事実から、個々が自ら「自分」を発見していきます。小さなタイムマシーンがくれた、幸福の調和(ハーモニー)というGiftを感じた瞬間となりました。
  • 昨晩も「幸福塾」ありがとうございます。いろいろな名人、偉人が残した言葉に基調、通奏低音と感じたことは、「日々を良く、あるいは好く生きることこそ幸福の源泉」ということでした。結果を細々と考え、思い煩い、不安の芽を大きくするのではなく…

  • 久恒先生、皆様、ありがとうございました。公人としてのそれぞれの父、母、神、王等紹介され、興味がわきました。自分なりに勉強してみます。本多清六氏の作られた明治神宮の完成が2070年、この目で見るのは難しそうです。造成の時に、全て杉にするのが伝統だと、お偉い方から横槍が入ったそうですが、低木中木高木の組み合わせで作る事で突っぱねたそうです。高野山は杉の大木におおわれて荘厳な佇まいでしたが、何百年もかかってます。どちらも日本の伝統だとおもいます。一つ余談ですが、トルコのことわざに「明日できる事を、今日するな」と言うのがあるそうです。お国柄でしょうか。次回も宜しくお願いします。
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「遺歌集」のチェック。

昼食は、橘川さんとお寿司。

0.9万歩

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フェイスブックでアカウントを乗っ取られたので、その処理。二重パスワードが有効。この件も含め、千葉雄、藤田に電話。探検部の田中にも。

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名言との対話」5月18日。柳兼子「やっと80歳になって歌が歌えたなという気がいたしますからね。長生きをしてよかったなと思います」

柳 兼子(やなぎ かねこ、1892年(明治25年)5月18日 - 1984年(昭和59年)6月1日)は、日本の声楽家(アルト歌手)。
民芸運動を主導した柳宗悦の妻である。声楽家東京音楽学校卒。渡欧(ベルリン)。1954年国立音楽大学教授。1961年紫綬褒章。1972年芸術院会員。92歳で逝去。

2019年に日本民芸館の向かいに建つ「旧・柳宗悦邸」の見学ができた。2階には柳宗悦記念室がある。日本民芸館の設立趣意書、自筆原稿、著書などをみることができる。また書斎の壁半分を占める自らデザインした本棚には4万冊の蔵書がおさまっている。「今日も空 晴し又」という書がかかっている。

驚いたことに1階には「柳兼子記念室」があった。知らなかったが、兼子は宗悦の妻であると同時に声楽家としても大をなした女性であった。民芸館で売っていた松橋桂子編『柳兼子音楽活動年譜』を購入し兼子の生涯を追った。

兼子は芥川龍之介と幼稚園、小学校で同級だった。男と同等の立場でいこうと考え、声楽なら女の立場があると気がつき、東京音楽学校で声楽を学ぶ。歌い手になるよりも芸術家になりたいと考えた。師のペツォールドから「お前の声はドラマティックだ」と励まされた。

宗悦21歳、兼子18歳で出会う。22歳の兼子は歌を続ける条件で結婚する。宗悦の母の勝子は加納治五郎の姉である。1924年、宗悦は同志社女子専門学校教授となる。1925年、兼子は33歳で同志社女子専門学校講師になった。宗悦の収入は朝鮮の民芸品や本代に消えるため、生活費は兼子の肩にかかっていた。36歳、発音の勉強と実力を試すためにドイツに半年滞在し、独唱会をひらき、「東京の柳兼子、それは異常な出現である」と新聞で絶賛される。兼子は「声楽の神様」と呼ばれている。

兼子は民芸運動創始者柳宗悦夫人であり、宗理(インダストリアルデザイナー)、宗玄(美術史家)、宗民(園芸家)の3人の子どもを育てながら、歌と家庭を両立させた。日経新聞では「女の中の女」と紹介されている。62歳、国立音楽大学教授。年1回のペースでリサイタルを続ける。69歳の宗悦が民芸館で椅子に座ったまま昏睡状態、その後72歳で死去。そのとき69歳の兼子の人生はそれから23年あった。

日本の声楽家は50歳で引退する人が多いが、自分は80歳でやっとうようやく歌が歌えたなという気がいたしますと語り、長生きをしてよかったと思う。83歳でアルトの声でリサイタルをしている。リサイタルは公式には85歳まで続くが、87歳まで頑張っている。肉体を楽器とする声楽では世界的にみても稀有の例であった。

92歳で亡くなったときの葬儀では長男で喪主の柳宗理は「母なしには民芸館は建たなかったと思う」と挨拶をしているから貢献度もきわめて高い。日本の声楽の基礎を築いたアルト歌手は92歳で天寿を全うした。不撓不屈で研究を続けたところにこの人の偉さがある。高齢化時代の女性の生き方のモデルである。

参考:松橋桂子編『柳兼子音楽活動年譜』