午後はJAL時代の仲間との同窓会。夜は知研セミナー。

JAL同窓会(客乗):山崎。望月。堀。環。横浜にて、12時半から16時まで。

ビジネスマン時代の仕事、人物、そしてエピソードを久しぶりに思いだしました。談論風発の楽しい同窓会となりました。

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知研幹部会

  • 新幹事・都築さん
  • 日程:6月17日。7月15日。8月19日。9月16日。
  • 理事長報告:AIのべりすと応募依頼。21年度事業報告の都庁申請手続き。役員交代。FBグループがメイン。5月29日・文学フリマ。地域未来フェス8月。

知研セミナー:ゲストは水谷哲也さん「ITと関西知研」。15人。

 

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参加者の学び。

  • 本日の知研セミナー「ITと関西知研の歴史」を大変興味深く伺いました。水谷様ありがとうございました。私の場合、ちょうど仕事を始めた頃に会社にIBMのシステムが導入されたことが話題になりましたが、その後のMS -DOSNifty-Serveパソコン通信などの言葉を聞き、なつかしく当時を思い出しました。また今や世界中を席巻しているGoogleAppleなどが、つい最近(に思える)1990年代に勃興した会社であることを考えると、ITの進化の速さと広がりに改めて驚きました。関西知研の活動の歴史では、芸能界や音楽家など多彩な方面からの講師もお招きし、とても魅力的な活動をされてこられたものと感銘を受けました。ありがとうございました
  • 楽しい時間をありがとうございました。大阪知研のセミナーが懐かしかったです。Niftyのフォーラムが一番印象的でした。今後のITがどの様に変わっていくか、楽しみです。最近の技術進歩が早すぎて、ついていく事が大変です.
  • 本日のセミナー大変参考になりありがとうございました。ITのお話しでは、私は、パソコンについてあまり詳しくないのですが、初期の大型のコンピューターや紙のデータなど、写真でわかりやすく説明してくださり、今のノートパソコンやスマホとずいぶん違う事に気づかされ、時代の変化を感じました。また関西知研が、とても古くからあり、常に時代を先取りし、皆さんが楽しそうに活動されて、素晴らしい取り組みをされていると思いました。今回、参加させていただき、とても楽しく、また新たな知識も得る事ができ、とても良かったです。ありがとうございました。
  • 本日のセミナー有り難う御座いました。ITの歴史をご紹介頂き、学生時代、会社時代の出来事が懐かしく思い出されました。改めて、その変化に驚かされました。私は高齢で、茨城県の田舎都市に住んでいますので、DXの進歩から、離れた世界になり勝ちです。そんな中で、FacebookやZoom会議で多くの友人が出来、有り難いと思っております。
  • 今日の知研セミナー「ITと知研関西の歴史」に参加させていただきました。私もある程度周りの人より早くからコンピュータに親しんできた者です。PC9801の時代からいろいろと使ってきて、特にNifty-Serveの「知的生産の技術研究会」フォーラムにも参加していました。今日は出なかったけどmixi、そしてFacebookへと変遷していきました。早くからコミュニケーションとネットワークを使ってきて、生物教育学会という学会のホームページもボランティアでつくり感謝されました。知研関西の活動も興味深く聴かせていただきました。私は東京以外の会には参加したことがないのですが、飲み会の雰囲気なども東京での会も同じだったと懐かしく思い出しました。私は高校の教員や管理職、教育委員会などに勤めていましたが、知研のおかげで広くいろいろな業界の方々と交流することができ、本当によかったと思っています。これからもよろしくお願いします。
  • 昨夜のお話はたいへん勉強になりありがとうございました。業界に精通されておられるので短時間で分かりやすくITの歴史を学べました。知研関西については当初から肩の凝らない運営で参考にさせて貰いましたが、岡山は途中から組織化した為に多少苦労がありましたが、何とか乗り越えて24年間続けれ今年から若い方にバトンタッチしました。今後は少し楽な形で交流活動をと思っております。飲みながら歓談できる時を楽しみにしています。更なるご活躍を期待しております。
  • 水谷さん、IT史は、私たちの人生と重なった知的生産ツールの発展史ですね。数多くのITベンチャーが出たのに、先見の明もなく投資もしませんでした。セカンドライフなんかもありましたね。ニフティフォーラムやモデム通信も懐かしかったです。関西知研は何度もお邪魔していますが、前半の歴史は初めて知りました。東京も機をみて、まとめていこうと思いますので、またご協力ください。関西の案内もぜひFBにご紹介ください。
     

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1.1万歩。

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「名言との対話」5月20日永井龍雄「芥川賞に回したらどうか」

永井 龍男(ながい たつお、1904年明治37年)5月20日 - 1990年平成2年)10月12日)は、日本の小説家随筆家編集者

東京都千代田区生まれ。高等小学校卒。16歳、文芸誌「サンエス」に投稿した「活版屋の話」が当選し、菊地寛の知遇を得る。親族に印刷関係者が多かったことで題材を選んでいる。帝国劇場の脚本募集に当選。創刊直後の『文芸春秋』に「黒い御飯」掲載。

23歳、文藝春秋社に入社。『オール読物』編集長、『文芸通信』編集長。31歳。創設された芥川賞直木賞の事務を担当。その後も『文芸春秋』編集長、編集局次長、取締役、専務取締役と昇進を重ねた。

戦後退社し、文筆活動に専念。1952年から1957年まで直木賞選考委員。1958年から1977年まで芥川賞選考委員。62歳、日本芸術院賞。68歳、菊池寛賞。71歳、川端康成文学賞。77歳、文化勲章・81歳、鎌倉文学館初代館長。

今回、私は『一個・秋その他』を読んでみた。永井の代表作の一つ『東京の横丁』は、「銭湯」「銀座の水溜り」「わが東京行灯」「武道館界隈」などを魅力的なタイトルが並んでいる。「東京の背骨」がわかる随筆であるといわれる。新聞、雑誌の切り抜き記事に感想を加えて書いた本である。

永井龍男は「芥川賞」選考委員の辞任騒動を起こしている。1976年、72歳の時には村上龍限りなく透明に近いブルー」の受賞に抗議。1977年、池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ」の受賞に抗議し、委員を辞任していて話題になった。

永井龍男全集』(全12巻)は、短編4、長編4、雑文3、俳句1(俳号は東門居)。16歳から始まった文学生活は86歳で亡くなるまで実に70年継続している。長い活動歴は、戦前と戦後に分けることができる。

戦前は文芸春秋社の社員として縦横に活動しながら、執筆活動も続けている。雑誌の編集長を歴任し、『文芸春秋』の編集長になっている。組織人としてもすぐれていたようで、編集局次長、取締役を経て専務にまで昇任し、最後は自ら辞任している。見事な二刀流である。

戦後は、文筆活動に専念し、数々の名作品を発表した。1955年には6冊、1965年は3冊、1972年は3冊、1976年は3冊と、多くの作品を書き続け、高い評価を得ている。

永井龍男の生涯をみると、菊池寛の存在を大きかったと感じる。16歳で、16歳年長の菊池寛の知遇を得て、文芸春秋社の入社を談判し、菊池寛の悲願であった「芥川賞」「直木賞」の事務方、選考委員をつとめた。芥川賞の委員辞任は、創設趣旨からはずれるという危機感がもたらしたものだろう。直木賞の選考委員は、70代前半まで20年近くつとめているから、永井龍男の生涯は菊池寛という師匠とともにあったのである。

芥川賞直木賞の双方に関与した永井龍男は、直木賞の候補であった松本清張「ある小倉日記伝」の作品を、芥川賞に回したらどうかと提案し、この作品は芥川賞を受賞し、国民作家となっていく松本清張をデビューさせていることも見逃せない。

二刀流の刀裁きの見事さ、文筆一刀流の冴え、そして恩師からの薫陶を大切にし、恩義に報いた生涯だった。その業績は、文化功労者文化勲章となって結実したのである。見事としか言いようがない。『東京の横丁』を読んで、永井龍男を偲んでみることにしよう。