九大探検部時代の仲間たちとの同窓会。

九大探検部時代の仲間との久しぶりの懇親会。王子のネパール料理店。

二次会は幹事の田中君のマンションで、同期の馬場、山田君と。

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入江、山田、馬場、久恒、内野、新原、田中(幹事)夫妻。

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朝:ヨガ1時間。

「祖父母初神王」:「経営」「鉄」「私小説」「旧石器」「税」「ナンセンス」「ビリヤード」「ショートショート」「ジャズドラム」「作戦」「柔道」「打撃」「特撮」「地震」「育児」「競馬」「木版」「同時通訳」「お金儲け」「憲政」「マンガ」「金融」「童話」「販売」。繊維相場、ろくろ、石炭。学問、、。

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「名言との対話」5月28日。浜井信三「こんな兵器ができた以上戦争は二度とやってはいけない」

浜井 信三(はまい しんぞう、1905年5月28日 - 1968年2月26日)は、日本の政治家、初代の公選広島市

広島市出身。東京帝大卒後、広島商工会議所を経て、1935年に広島市役所入り。1945年配給課長に時に原爆で被災。その年に助役。1947年公選による初の市長に就任。同年8月6日に第1回広島平和祭と慰霊祭を行い、平和宣言を発表。1949年、広島平和都市建設法を制定。1950年、平和記念公園を建設。1955年の選挙で敗れる。1959年に返り咲く。1966年、原爆ドームの永久保存運動を始める。1968年、死去に当たって市民葬が執り行われた。通算4期にわたって市長をつとめ、広島の父と呼ばれた。愛称は原爆市長。

2019年の浜井信三の妻が105歳で亡くなって遺品の整理をしたところ、8ミリ映像が見つかり、それを復元した映像をテレビ新広島のサイトでみることができた。浜井信三の貴重な肉声を聴くことができる。タイトルは「被爆75年「原爆市長」が語るヒロシマ」だ。

8月5日は不気味な日だった。米軍から「おおきなみやげがある」というビラがまかれたといううわさがあった。自宅で兄嫁が「Bさんが何かを落としたよ」という間もなく、家は木っ端みじん。市役所へ向かう途中で幽霊のようになった被災者は誰もは「私の家に爆弾が落ちた」という。2-3日後に新聞記者から「原子爆弾」と知らされる新聞社は短波放送を聞いており、トルーマン大統領が語っていたのを聞いていたのである。

虚脱状態にあった市民たちから「平和祭」をやろうという声が澎湃として起こってきて、それに押される形で実行する。科学の進歩で兵器は無限に進歩するだろうから、殺戮と破壊にむけて何が出てくるか予想もできない。この非道な科学兵器で人類は自殺に追い込まれる。

浜井はそういう趣旨のことを語っている。貴重な映像と市長退任後の講演時の肉声である。

重度障碍者のヘレンケラーが1948年に二度目の来日したおり、広島を訪れている。「私は広島と長崎を忘れません。、、、人々は恐るべき状況にありながら、なおも与えようという気持ちをもっておられたのでしょう。このような寛容さに対して私は一体どう答えればいいのでしょうか」と語った。浜井信三は「重い障害とともに歩んできたあなたの生き方は、懸命に生きることの大切さを教えてくれます。わたしたちはあなたが歩んでこられた道から学んでその道をたどって参りたいと思います」と返している。

広島は重い障害を背負っており、ヘレンケラーの崇高な生き方をモデルにして歩んでいくという決意を市民を代表して述べたのである。個人の生き方に広島市民が励まされたのである。

浜井信三は原爆で市役所の幹部がいなくなったときに、配給課長として全力を注ぐ。推されて市長になったのは天命と感じていたんではないだろうか。そして広島の父と呼ばれるまでの大きな仕事をした。人に天命があるように、都市にも使命があるのではないか。人類初の原子爆弾被災に遭遇した広島という都市は77年後の今も、その使命を携えている。