鹿島茂『稀書探訪』ーーコレクターという人種。フィジオノミー(観相学)とイノコノグラフ(図像調査士)

日比谷図書文化館で「鹿島茂コレクション『稀書探訪』」展。

ANAの機内誌「翼の王国」に、2007年4月号から2019年3月号まで12年間144回の連載「稀書探訪」の企画展。フランスの古書、稀観本の収集に40年あたっているコレクターが集めた稀書の展覧会。鹿島茂のテーマは「19世紀のパリの復元」だ。景観、人間、風俗、建築、万博などあらゆるものが対象である。パリに関するすべての図版本の収集という野望をいだいて30年以上。図版、図像、イラストなどの視覚思量の重要性を知っていて、「図版資料の力は偉大である」と述べている。

私が一つのテーマとして意識している「コレクター」についての旅の一貫だ。鹿島は自己破産寸前まで経験しているから、まさにコレクターの名にふさわしい。

収集家と表現者。収集というデーモン。類似性と差異性という原則。「アルものを集めて、ナイものを創り出す」。表現者は創造する。コレクターは再創造する。

買ってきた、4000円もする分厚い『稀書探訪』(平凡社)をめくっていて、「コレクター」がどういう人種かがわかる記述が目についた。

 

古書との出会いは一期一会。資金繰りが可能ならば迷わず買え、である。

迷った時はとにかく買っておけ。これである。

自分で自分のコレクションが把握できていないと言う厳然たる事実を突きつけられた

古書集めは、あらゆる意味で人生に似ている。一度決断したら、そうは簡単に取り替えはきかないというところも。

私は20世紀に出た本は古書とは認めない主義買うだけで管理がいい加減なのは、買わなかったも同然、と。

「資料は10年がかりで集めろ」「漠然とでもいいから、自分が生涯に手掛けたいと感じているテーマを複数見つけておくことですね…」(河盛好蔵)

たとえ好きでなくとも、超レアアイテムならコレクターとしてこれをコレクションから外すわけにはいかないというわけだ。かくて、私はめでたく真性コレクターとあいなったのである。あまりに膨大な作品を残した画家はコレクションには向いていない、どうやらこれが結論のようである。

コレクションの醍醐味というのは、既知(既存)のものを集めて未知(未存)のものをつくりだすこと、これに尽きる。
コレクションの一つは時間軸に沿った通時的なものとして成立する。そのコレクションを見ると、一つのテーマの歴史的変遷が見えてくるのである。
コレクションにいちばん必要なもの、それは時間と執念深さ、1つだけなら時間である、と。

問題はそれが巡ってくるきているように思える時、本当に千歳一遇のチャンスなのか否かなかなか見極めできないことにある。

「バラ買いの完全揃い達成」というやつである。
絶望的に困難な事業が完成するのは、いつのことやら。果たして私の存命中に完了するだろうか?
凄い!丸儲け!これがあるから古書集めはやめられないのである。

私は「フェイスハンター」を受賞している。つまり歴史上の人物がどんな顔だったのか知りたいがために、写真ないしは肖像画を片端から集めているのだ。… .この私は、このフィジオノミー(観相学)の信者であり、「顔見りゃわかる」を人生の指針にしている。

古書収集に没頭してすでに30余年。今なお「完結」の2字を打つことのできない原因はいくつかあるが、ひとつには対象を「本」だけではなく「新聞、雑誌」にまで広げてしまったことがある。、、、、あと何十年かかるかわからない。死ぬまでに集められるだろうか?

コレクターには「とじられたコレクター」と「開かれたコレクター」があるというのが私の持論… .私自身には両方の要素があり、

灯台下暗し。

完璧なものを作りあげておけば、必ずそれを評価する人はあらわれる。、、、完璧なものをつくって後世の批判に俟つ、である。

インターネット検索の普及は古書の世界に思いもしなかったような影響を与えつつある

コレクターとしての側面と、研究者としての側面を「併せ持っている者」こそ不幸である。美と情報を、どちらかにしない限り、待っているのは破滅だけなのだから。

こうした掘り出し物に出会えるなら、ときには場末の古書店を回ってみるのも悪くないようである。

「コレクターとしての自分」と「研究者としての自分」という二つの面が互いにもういっぽうを排除したがることにある。、、、、「研究者としての自分」があったからこそ見つかった掘り出し物である。

相場の半額だったが、それでも高かった。やはり、この分野でコンプリートを目指すと言うのは暴挙に等しいようである。

掘り出し物と言うのは確かに存在する。求めるものには扉が開かれるのである。

日は暮れて、アンペカーブル(瑕瑾なし)への道遠し、である。

フランス人にはもとから漫画好き、アニメ好きの傾向があったからこそ、日本の漫画やアニメを「発見」できたというわけだ。

コレクターに欠かせない資質の一つとして、みんなの好きなものには全く興味を示さない天の邪鬼的な性質というのをあげることができる。…コレクターは、程度の差こそあれ、みんな天の邪鬼な人間なのである。

ある人物に興味を持ったら、その人に関する書物や版画を片端から集めてみることですねそうすれば、コレクションの醍醐味というものが理解できるはずですよ。

オークションに出たときには借金しても買っておけ。

私のコレクションの真の重要さがわかるのは、この世に私一人しかいないのである。嗚呼!

手に取るたびに「いやー、オレもよくやったよな!」と自分で自分を褒めてやりたくなる本がある。

私には何としても実現したい夢がある。それはイコノグラフ(図像調査士)になることだ。、、、、もの書き廃業のあとの職業は、もうイコノグラフで決まりである。

「自宅掘り出し物」でも呼んでおこうか。

収集家というのは本質的に貪欲な「帝国主義者」である。、、、つまり収集範囲を外側に広げて帝国を大きくしていこうという野望が頭をもたげるのである。

古書コレクションの情熱というのは恋に似たところがある。、、すべてを収集し終わると、その途端に情熱は冷めてしまう。そう、コレクションの情熱というのは、発生、発展、衰弱という過程をたどり、ついには消滅へと至るという点ではまさしく恋なのであり、嫉妬、焦燥、絶望、歓喜など、「恋の病」とそっくりの症状を呈するのである。

古書収集談義とは臨死体験に似ている。死の寸前で踏みとどまってこちら側に戻ってきた人だけが綴れる体験談なのである。

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1万2千歩。

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「名言との対話」6月2日。大西瀧治郎諸士は国の宝なり 平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と 世界人類の和平の為 最善を尽せよ」

大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、明治24年1891年6月2日 - 昭和20年(1945年8月16日)は、日本海軍軍人

大西は「特攻は統帥の外道である」と反対していた。しかし、フィリピンのレイテ沖で、特攻を初めて命じた人物である。その後は、海軍軍令部次長として最後まで徹底抗戦を主張し続け、敗戦が決まった翌日の8月16日に割腹自殺を遂げている。

戦争は負けるかもしれないが、「特攻」で先祖の戦いぶりをを残せば、大和民族は滅ばないという論理で数千人の若者を帰還の可能性ゼロの作戦に突入させた。「特攻の父」という汚名が後世にまで伝わっている。

半藤一利保阪正康『昭和の名将と愚将』(文芸春秋)を読んだ。

名将として以下の将軍をあげている。栗林忠道石原莞爾永田鉄山、米内光正、山口多聞、山下奉、武藤章伊藤整一、小沢治三郎、宮崎繁三郎、小野寺信、今村均山本五十六。そして愚将としては服部卓四郎、辻正信、牟田口廉也瀬島龍三、石川信吾、岡崎純、そして最後に、「特攻隊の責任者」として、大西瀧治郎富永恭次、菅原道大をあげている。愚将の最たるものという意味だろうか。

この対談によれば、不利が明白であり、後は人間爆弾を使った特別平気で攻撃するほかはないという海軍上層部の合意があった。山本五十六は「十死ゼロ生などというものを、上の指揮官は命令すべきでない。だから自分は認可しない」と反対していた。自決した大西を「特攻の生みの親」とする神話を組織的につかった形跡があるという。

海軍にあおられた陸軍の特攻作戦の責任者であった司令官の冨永は「君らだけを行かせはしない。最後の一機で本官も特攻する」と言っていた。そして菅原も同罪だとしている。

鹿児島の知覧特攻基地の跡に立つ平和会館には「こんな作戦をやる国が勝つわけがない。けれどいかざるを得ない」という遺書が多数あるとのことだ。

特別攻撃隊」というが実際は戦闘ではなく、自殺であり、玉砕作戦だったのだが、人為的に涙を誘うきれいな話になってしまっている。半藤と保阪の二人は、「特攻」は戦略、戦術の問題として、問われなくてはいけないと問題提起をしている。

大西瀧治郎は、遺書において、平和の時代に向けて「特攻精神」を強調している。その文章に前では、「最後の勝利を信じつつ、肉弾として散華した部下の英霊と邨家族に謝している。国の宝である若者を死地に追いやったが、生き残った人たちには自重を呼びかけているのだ。大いなる矛盾といわざるをえない。

学生時代に『わが命月明に燃ゆ』などを読んだ記憶が蘇ってきた。近々、鹿児島の知覧を訪れるので、このあたりのことを改めて考えることにしたい。