youtube「遅咲き偉人伝」。第5弾は映画監督の伊丹十三。50代でようやく天職にめぐり逢い名作を連発した。

youtube「遅咲き偉人伝」。今回は映画監督の伊丹十三

 


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「名言との対話」12月20日伊丹十三。「がしかし、これらはすべて人から教わったことばかりだ。私自身はほとんどまったく無内容な、空っぽの容れ物にすぎない。」

一世を風靡した名エッセイ「女たちよ!」を読んだが、あらゆことを知っており、そして実際に実行した上で、ゆるやかに断定するという筆致の冴はただ者ではない。

エッセイスト。料理通。乗り物マニア。テレビマン。精神雲関啓蒙家。イラストレーター。俳優。この並びのように、多様な興味と薀蓄と経験を経て、最終的には天職であった映画監督につながっていく。

タンポポ」(1985年)「マルサの女」(1987年)「マルサの女2」(1988年)「あげまん」(1990年)「ミンボーの女」(1992年)「大病人」(1993年)「静かな生活」(1995年)「スーパーの女」(1996年)「マルタイの女」(1997年)。

 寿司屋での作法は山口瞳にならった。包丁の持ち方は辻留にならった。俎板への向かい方は築地の田村にならった。パイプ煙草に火をつけるライターのことは白洲春正にならった。物を食べる時に音をたてないことは石川淳。箸の使い方は子母澤寛。刺身とわさびの関係は小林勇。レモンの割り方は福田蘭堂。、、、。

「昔、子供のときにあこがれた偉い人になるということを今こそ本当の意味でやりとげなくてはならないのだ。」

この多芸多才な伊丹十三の鬱屈は、なかなか定まらない人生の焦点にあった。何でもできるが、本当は何をやりたいかがわからない。人から見るとうらやましい才能であるが、本人は苦しい。自分は何でも入る空っぽの容れ物に過ぎないと嘆いた伊丹は、50代になってようやく天職にたどり着く。なかなか焦点が定まらなかった伊丹はようやく父・伊丹万作と同じ映画監督になる。それが天職だった。その後は話題の多い名作をつくるが、天職についたその大活躍の期間はわずか10年余であった。伊丹十三は遅咲きだったのだ。

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「名言との対話」6月8日。長谷川四郎「シベリア物語」

長谷川 四郎(はせがわ しろう、1909年明治42年〉6月7日 - 1987年昭和62年〉4月19日)は、日本小説家。享年77。

父は後の函館新聞社社長。長男は海太郎(作家、牧逸馬林不忘谷譲次)、次男潾二郎(作家、地味井平造、画家)、三男は濬(作家、ロシア文学者)。四郎は名前の通り、第四子である。

立教大学予科文科時代に、詩作を始める。卒業後は法政大学独文科で学ぶ。卒業後、1937年に満鉄に入社。大連、北京で勤務。欧文資料を担当する。

1942年、満鉄を退社し満州国協和会会調査部に入り、新京で蒙古人の土地調査にあたる。この間、兄のとアルセーニフ「デルス・ウザーラ 沿海州探検行」を翻訳し刊行する。これは後に、黒澤明監督の日ソ合作映画「デルス・ウザーラ」の原作となった。この映画は私もみている。

1945年、満洲里の近くのソ満国境、扇山の監視哨に配属となり、ソビエト軍の攻撃をうけ、敗走。齋々吟爾(チチハル)の捕虜収容所に入れられたのち、満洲里を通ってソビエトへ入る。チタを経てチェルノフスカヤへ行き、カダラの捕虜収容所に入れられる。そして、翌年の1946年から1948年までチタの周辺で石炭掘り、煉瓦づくり、野菜・馬鈴薯の積みおろし、汚物処理、線路工夫、森林伐採、材木流送などの労働に従事する。1949年の秋、ナホトカに近い、ウスリ鉄道沿線のホルで馬鈴薯の積みおろし中に足を骨折、ゴーリンの病院に入院する。

1949年、帰還。1951年、「近代文学」4月号から抑留体験をもとにした「シベリヤ物語」の連作を発表し始める。翌年の1952年、『シベリヤ物語』を筑摩書房から刊行し、この年活躍した有力新人作家として、〈第三の新人〉のひとりに数えられ注目される。その後、詩人、作家、劇作家、翻訳家(ロシア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語)として、活躍する。

函館市文化・スポーツ振興財団「函館ゆかりの人物伝」より)

長谷川四郎には、著書も翻訳書も多い。数年にわたるロシアでの捕虜生活を描いた『シベリア物語』(1952年。講談社文芸文庫)を読んだ。

シルカ」「馬の微笑」「小さな礼拝堂」「舞踏会」「人さまざま」「掃除人」「あんな・ガールキナ」「ラドシュキン」「ナスンボ」「勲章」「犬殺し」などの作品が並んでいる。いずれもシベリアでの捕虜生活を描いた作品である。「シルカ」「勲章」を選んで読んだ。

シルカ」では、捕虜とロシア人との交流の様子が書かれている。ロシア人からは「トウキョウでは結婚式は教会でやるか?」、「日本にも神がいますか?」と聞かれている。こちらからは「あなたはトルストイを読みますか?」と聞くが、読んだことはないとの答え。プーシキンは「知ませんと」との答えだった。東北出身者の多い日本人捕虜と、ロシアの庶民との交流が描かれている。
私には「勲章」が面白かった。捕虜たちのリーダーであった佐藤少佐は「大隊長」と呼ばれてていた。捕虜であることの自覚に乏しく威張っていたこの俗物は、天皇陛下のご命令で鍛錬のため作業に来ているとし、日本への帰国の楽観情報を流している。ここでも将校、下士官、兵隊の身分が残っていた。時間が経つと、下士官は兵隊に位に没落する。しかし、将校は勲章を宝ものように扱い、下士官は肩章をはずすことはなかった。自分自身のアイデンティティだった。

捕虜たちはロシアから命令されて壁新聞を発行する。論説に加え、和歌、俳句、川柳、新体詩までが満載である。

少佐はしだいに、勲章、肩章、へそくりなどを取り上げられて、ナホトカの収容所でみじめな生活を送る。自己批判までさせられそうになっていく。最後は帰国できることになる。

極寒のシベリアの捕虜にも、過去の勲章や保持していた地位というものが、いかに自尊心を保つのに役立つか、幻想の中でなんとかアイデンティティを失わせないか、そういう誇りの大切さと人間の愚かさが滑稽な感じで描かれている名作である。

最後は、「船に乗って、海を「渡り、上陸して汽車に乗り、それから故郷の村へ、そして家族の顔また顏、だがそれから先は、漠々として未知なる未来の霧の中に消えているのだった」としている。

戦後すぐの1952年に刊行されたこの名作は、長谷川四郎の出発作となった。捕虜生活の間にも、相手の国の言語をぶ、ロシ人についての認識を深める。そして同胞である日本人捕虜たちののふるまい、人間一般への洞察を欠かさず、楽しんでいる長谷川四郎の姿がみえる。このような人が、詩人、作家、翻訳者など表現者として大成していくのは当然だという感慨を持った。人はどこにいても、その人らしく生きていく。人はかずかずの事件や境遇の中で自分自身になっていく。