石橋正二郎(ブリジストン創業者):久留米の石橋正二郎記念館を訪問し、『石橋正二郎伝』伝記を読んだ。

石橋正二郎記念館(久留米市)。

石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、1889年明治22年)2月1日 - 1976年昭和51年)9月11)は、日本実業家。 

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石橋正二郎は家業の仕立物屋から出発。足袋の底にゴムを貼りつけた地下足袋で成功。その後、自動車時代を見据え、ゴムの生産技術を生かした国産タイヤに進出。今日のブリジストンの創業者である。また石橋は鳩山一郎の後援者としても知られている。そしてもう一つをの顔が美術コレクターである。石橋正二郎は政治家・鳩山一郎を支援し、一方で美術品の蒐集にもあたった。現世を司る「政治」と永遠の美を見つめる「美術」、この二つが財をなした実業家の金の使い道である。

坂本繁二郎は、師の森三美の世話で母校久留米高等小学校の代用教員をしていたことがある。このときの教え子の中にブリジストン創業者の石橋正二郎がいた。石橋が坂本繁二郎と坂本の友人の青木繁の絵を収集したのもこの縁である。東京のブリジストン美術館で今回の青木繁展が開かれているののを見たことがある。

「時の短縮は、私の信条である、もし他人の3分の1の時間で仕事をすれば、結局3倍の仕事ができるわけだ。だから一生外の活動時間を、仮に40年とすれば、120年分の仕事量となる勘定なる。」

私が尊敬する人たちは皆時間管理、タイムマネジメントの達人たちだ。誰1人として時間管理が下手な人はいない。そういう人たちは人が3時間かかる仕事を1時間で仕上げてしまう。だから膨大な仕事量をこなすことができる。それは仕事の熟練を促していき、あっという間に優れた成果を上げてしまう。この石橋正二郎と言う大実業家もそういう人の1人だ。こういう人は自分の部下たちを鍛え、会社そのものを鍛えに鍛えていったに違いない。この考え方で一代であのブリヂストンを創ったのだ。

記念館で購入した『石橋正二郎伝』(静岡新聞社)を読んだ。著者は大坪壇だった。懐かしい名前である。「知的生産の技術」研究会で1986年に刊行した『知的生産者の発想現場から』(TBSブリタニカ)でインタビューをした相手だった。当時は大坪さんはブリジストン・秘書室主査だった。著者プロフィールをみると、本が出た翌年に大学教授へ転身している。

その大坪さんが書いたということで、熱心に読んだ。大坪さんはブリジストン石橋正二郎の補佐的な仕事を約10年間務めている。1987年に静岡県立大学教授。その後、静岡産業大学学長をつとめている。この本は2019年(令和元年)に90歳の卒寿の年に刊行したものだ。「インテレクチュアル・エンジョイメント」「仕事は能率よく、生活は愉快に」というというモットーのままにやってこられたのだろうと推察する。かくありたいものだ。

さて、石橋正二郎について。訪米時に「お金は稼ぐより使う方が難しい」というロックフェラー3世の言葉を常に頭に置いていた。それが美術品収集と美術館の建設、あるいは郷里への幅広い貢献になった。

経営:「世の人々の楽しみと幸福の為」。確かな人事哲学。広告宣伝の天才。マネジメントシステムのイノベーター。人が本で法は末。人物を見る目。推理する力の大小と深浅で成功の大小が決まる。数字と事実。「タイヤは命を乗せている」。

ゴムをベースにした脱タイヤ路線を進化:カーボンブラック製造。スチールコードの製造。ラジアルタイヤ。多様なゴム製品。ゴルフボール。スポーツ用品。電気自動車。小型ロケット。航空機。石油事業。寝具。オートバイ。LPG。、、、

人物:新しもの好き。一流好み。一番主義。沈思黙考、熟慮断行。即断。長期経営計画。撤退もうまい。石橋学校。建築好き。自然愛好家。「建築と造園は人間最高の趣味である」が口ぐせ。日記。挨拶原稿は自作。強い郷土愛(久留米大学石橋文化センター、プール21、美術館、、、。鳩山一郎の支援者としての顔。

言葉:ニクソンショック時「大丈夫乗り切れる。私についてきなさい」。「本筋から離れ投機でもうけることは間違い」。予言「共産主義は衰え、結局資本主義に一歩ずつ歩み寄ると思う」(1962年)

大坪壇は「60代からの方が大きな仕事を始めている」と観察している。ある意味、遅咲きともいえる。60歳、ブリジストンサイクル(株)の設立。62歳、プリンス自動車会長。71歳、東京の旗艦工場の建設。72歳、ブリジストンの株式の公開。74歳、会長。80歳、佐藤栄作大蔵大臣の要望に沿って東京国立近代美術館を建設、寄贈。82歳、久留米の石橋文化センターの日本庭園寄贈式。87歳まで、生涯現役だった。生涯現役のモデルだ

妻は「つねに物事を深く考え、進歩的、独創的、積極的で、計画は常に遠大であり、人のまねをするのではなく、人のしないことをしなければいけないといっている」と語っている。

石橋正二郎という傑物の伝記は、息子の幹一郎の友人でブリジストンにも在籍経験のあっる小島政二郎のものなどあるが、ビリジストンに長く勤め、正二郎の身近で仕事をした経営学者である大坪壇の伝記で、石橋正二郎のことがよくわかった。

以上、久留米で学生時代からの友人の上野君の案内と説明、記念館訪問、伝記を読んで、石橋正二郎という人物の大きさに感銘を受けた。

知的生産者の発想現場から

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「名言との対話」6月18日。ジョージ・マロリー「そこにエベレストがあるから」

ジョージ・ハーバート・リー・マロリーGeorge Herbert Leigh Mallory 、1886年6月18日 - 1924年6月8日もしくは9日)は、イギリス登山家

イギリス人。ケンブリッジ大学を卒業。マロリーはエベレストに3度の挑戦している

1921年第一次遠征隊は偵察が目的で若手として参加。1922年第二次遠征隊では頂上アタック隊を率いた。1924年第三次遠征隊では、アンドリュー・アービンとともに 8170m地点の最終キャンプから山頂を目指したが、再びキャンプに戻ることはなかった。1999年にマロリーの遺体が発見された。登頂していたか、はいまだにわからない。

「登頂」とは何か。登頂とは生きて帰ってくることまで含むことが常識であり、マロリーが頂上登ったかどうかに関係なく、1953年にイギリス人のヒラリー卿とシェルパのテンジンが初登頂した。

当時は極地探検の時代であった。1909年の北極点到達。1911年の南極点到達。そして世界最高峰のエベレスト登頂への挑戦。イギリスを始め、世界の主要国が国の威信をかけてしのぎを削っていた「探検の時代」であった。

3回目の挑戦の前に、「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」と問われたマロリーは「Because it's there」と答えた。日本では「なぜ山に登るのか?」という問いにし、「そこに山があるから」と訳してしまった。誤訳である。「it」は山一般を指すのではなく、世界最高峰のエベレストをさすのである。本当は「そこにエベレストがあるから」が正しい。

この「そこに山があるから」は、大学の探検部時代に聞いたことがあるが、よくわからなかった。何か哲学的な深い意味があるような議論が多かったが、もっと単純だったのだ。世を惑わす世紀の大誤訳である。

同じような誤訳は他にもある。「United nations」を日本は国際連合と訳した。本来は第二次世界大戦戦勝国連合である。拒否権という大きな権限を持つ常任理事国が米英仏露中であることが示している。ドイツや日本は敵国であるから、世界政府というような幻想は持ってはいけないのだ。

因みに「Right」は福沢諭吉は「権理」と訳すべきだとした。しかし 法律用語として「権利」となってしまった。「利」は利益である。「理」は道理だ。福沢の主張どおり訳していると世の中の風潮も違ったかもしれない。

今さらではあるが、「そこに山があるから」というマロリーの言葉は、本当の意味を離れて、常識になってしまった。それはそれでいいのだろう。