西郷南洲顕彰館で購入した『西郷隆盛漢詩集』と『南洲翁遺訓に学ぶ』を読む。

西郷南洲顕彰館山田尚二・渡邊正『西郷隆盛漢詩集』(財団法人西郷南洲顕彰会)と『南洲翁遺訓に学ぶ』(公益財団法人荘内南洲会)を購入。その2冊を読んだ。

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西郷は、日本を代表する漢詩人で200篇以上の作品がある。そして偉大な書家でもあった。

「幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し 丈夫は玉砕してせん全を愧ず 一家の遺事人知るや否や 児孫の為に美田を買わず」(感懐:心に感じたこと)

「酷吏去り来たって秋気清く 鶏林城畔涼を逐うて行く 須らく比すべし真卿身後の名 告げむと欲して言わず遺子への訓 離ると雖も忘れ難し旧朋の盟 胡天の紅葉凋零の日 遥かに雲房を拝して霜剣横たう」(朝鮮国に使するの命を蒙る)

「独時情に適せず 豈歓笑の声を聴かんしむや 羞を雪がむとして戦略を論ずれば 義を忘れて和平を唱う 秦檜遺類多く 武公再生し難し 正邪今那ぞ定まらむ 後世必ず清いを知らむ」(闕を辞す:官職を辞して朝廷を去り、帰郷すること)

「八朶の芙容白露の天 遠眸千里雲えんを払う 百蛮国を呼んで君子と称するは 高標不二の戴有るが為なり」(富岳の図に題す)

 

『南洲翁遺訓』は、戊辰戦争で最後に帰順した庄内藩に対して東征側の薩摩軍が極めて寛大な条件を出して王道的な処置をした。それを伝えたのは黒田清隆であったが、命じたのは西郷であった。このことに感激した庄内藩は優秀な者を選んで鹿児島に留学させ、西郷に学ばせた。西郷から学んだことを小冊子にし、全国の心ある人に配った。

「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些とも私を挟みては済まぬものなり」

「賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ、縦令人材を登用し、言路を開き衆説を容るるとも、取捨方向なく、事業雑駁にして成功有るべからず」

「政の大体は、文を興し、武を振い、農を励ますの三つに在り」

「萬民の上に位する者、己を慎み、品行を正くし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思う様ならでは、政令は行われ難し」

「広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先ず我が国の本体を居え、風教を張り、然して後徐かに彼の長所を斟酌するものぞ」

「文明とは、道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うには非ず」

「租税を薄くして民を裕にするは、即ち国力を養成する也」

「節義廉恥を失いて、国を維持するの道決して有らず。西洋各国同然なり。上に立つ者下に臨みて利を争い義を忘るる時は、下皆之れに倣い。人心忽ち財利にはしり、卑吝の情日日長じ、節義廉恥の志操を失い、父子兄弟の間も銭財を争い、相い讐視するに至る也」

「正道を踏み国を以て斃るるの精神なくば、外国交際は全かる可からず」

「何程制度方法を論ずるとも、其の人に非ざれば行われ難し」

「道は天地自然の未知なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を脩するに克己を以て終始せよ」

「学に志す者、規模を宏大にせずばある可からず」

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し」

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

「道を行う者は、天下挙てそしるも足らざるとせず、天下挙て誉るも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也」

「聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、とても企て及ばぬと云う様なる心ならば、戦いに臨みて逃ぐるより猶お卑怯なり」

 

私は大学生時代にクラブ活動で人間関係に悩んだ時、「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し」という西郷の言葉を知り、切り抜けたことがある。その後も、この言葉を信条として仕事をしてきた。こうやって、改めて「遺訓」を眺めてみると、西郷の偉さがよくわかる。そして、この遺訓は、今の世への警鐘となっていることに驚く。「道」の再興が大事だ。

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7月の「名言との対話」で取り上げる明治生まれの人物候補を決定。

坂田三吉三島海雲。疋田豊治。巌谷小波清瀬一郎。佐藤紅緑サチェル・ペイジ。佐々木信綱。清水幾太郎吉行あぐり。岩崎憲。西竹一。青木繁。里見弴。永野重雄アムンゼン。安達峰一郎。山崎寿春。鯨井恒太郎。種子島時休。遠山元一。田中一村下山定則金子直吉。島津源蔵。小山内薫山本有三。大原孫三郎。重光葵中村天風柳田国男

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「名言との対話」6月21日。須藤永次「強力な競争会社をたくさん作って、切磋琢磨していなかくちゃならない」

須藤永次(1884年6月21日〜1964年2月21日)は、日本の実業家。

山形県出身。尋常小学校を卒業し蚕物問屋に奉公する。9年の奉公を終える頃には、「世の中のためになり、世の中の人から感謝されるような商売」をやりたいと心に決める。

いくつかの挫折を経て、浅野総一郎との幸運な出会いがあり、商売に活路ができる。このとき、須永は自分より目上の人との交際をしようと決め、交際費は自分で支払うことととする。浅野は「稼ぎに追いつく貧乏なし忍耐」と揮ごうして須永を励ましている。須永はこの出会いに感謝し、浅野を生涯の師として事業に励んでいく。

1918年に吉野石膏採掘製造所をスタートさせる。1920年に倒産寸前の置賜郡是製糸を引き受け立て直しに成功する。1929年に生糸価格の暴落で倒産。

再起をはかり、1931年にリン酸石膏で焼石膏にするテストに成功し、安い価格の生産が可能になる。耐火ボード普及に弾みがつく。1937年、株式会社化する。その後も、幾多の困難を乗り越えて会社を発展させていく。

一般社団法人石膏ボード工業会では、「石膏ボードは、石膏をしん材とし両面を石膏ボード用原紙で被覆成型した建築用内装材料で、防火性、遮音性、寸法安定性、工事の容易性等の特徴をもち、経済性にも優れていることから「なくてはならない建材」として建築物の壁、天井などに広く用いられています」と説明している。

燃えない建材を大量に普及させるために、技術を直接指導し、ライバル会社を多く作って、石膏ボード業界を作った。自社の一人勝ちよりも、「業界」を作ることを使命としたのである。そして「石膏ボード工業会」を設立し、会長となって業界を指導している。

意識して「業界」をつくるという使命感は、若い時代に「世の中のためになり、世の中の人から感謝されるような商売」をやろうと決意したことが本物だったことを証明している。