yutube「遅咲き偉人伝」の8回目:森光子編「あいつより うまいはずだが なぜ売れぬ」

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「名言との対話」11月10日。森光子「あいつより、うまいはずだが、なぜ売れぬ」

  • 森 光子(もり みつこ、1920年大正9年)5月9日 - 2012年平成24年)11月10日[2])は、日本女優歌手司会者
  • 最初の結婚:日系二世の米軍人。入籍後1週間で別れ。ハワイに行かなかった。
    二度目の結婚:テレビのディレクターの岡本愛彦。4年で離婚。年齢を3つ偽る。
  • 1920年生まれの国民的女優。89歳で「放浪記」2000回を達成。一人の役者が主演し続けた舞台としては最長である。体力をいじめるためにヒンズースクワットを毎日150回こなしていた努力家でもあった。
  • 「幸せはいつも目の前でユーターンする」とも言っていた脇役も、演技のうまさにおいては定評があったが、売れるまで時間がかかった。そうして年月を重ねる中から、大女優に変身していった森光子の生涯には学ぶべきものがある。

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午後:目白のU社を訪問。数年間つきあってきた大型プロジェクトもようやく終りを迎える。秋に刊行。終了後、軽く打ち上げ。

夜:デメケンミーティング。力丸君とミーティング。深呼吸事務局ミーティング

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「名言との対話」7月4日。巌谷小波「重く散って軽く掃かるる一葉かな」

巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日明治3年6月6日) - 1933年昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家児童文学者、口演童話家、俳人ドイツ文学者ジャーナリスト。享年63。

東京出身。近江水口藩の藩医の家系であるが、医学の道に進むことを拒否し、文学を志す。1887年、硯友社に入る。1891年、処女作である児童文学『こがね丸』を発表する。

小波主筆である博文館の雑誌「少年世界」「幼年世界」「少女世界」「幼年画報」などに作品を発表した。

巌谷小波は、日本と世界の民話や英雄物語などを平易に書く改め再生し、子どもたちに届けるこを志して20代半ばから30代後半にかけて、「日本昔噺」(24編)、「日本お伽話」(24編)、「世界お伽話」(100編)を連続して刊行する。代表作を集めた『小波お伽全集』(全12巻)を60歳で完成させている。児童文学の世界の体系化を目指したのである。

桃太郎、舌切雀、花咲爺、かちかちやま、浦島太郎、一寸法師、猿蟹合戦、金太郎、文福茶釜、うさぎと亀、かぐや姫、牛若丸、物臭太郎、など私たちが子供時代に親しむことができた「お伽噺」は、巌谷小波の作品のおかげだったのだ。

一方で自ら童話を執筆し、全国行脚で口演をしている。小波が主宰した木曜会の参加の一人が大分県出身の久留島武彦で口演童話の普及に力を入れ、日本のアンデルセンと称された。

巌谷小波 名作全集』(日本文学研究会)を読んだ。第1章は日本初の創作童話「こがね丸」で、第2章は「三角と四角」である。二つとも小波の創作童話である。「三角と四角」では、三つの角を自慢している三角定規が主人公だ。四角の画板の出現に驚いた三角定規は、こっそりハサミで画板の角を切ってしまう。その結果、画板の四角の角は、2倍の8角になってしまう。三角定規は「兜を脱いで降参しましたわ、身ほど知らぬ大白痴」と結んでいる。とても面白かった。

小学校時代によく歌った記憶のある「あたまをくもの うえにだし」で始まる文部省唱歌『ふじの山』や、「指に足りない一寸法師 小さい体に大きな望み」で始まる『一寸法師』の作詞家でもある。

俳人としても活躍した。「重く散って軽く掃かるる一葉かな」は、一生をかけて積み上げても、亡くなってしまえば、その死や業績もすぐに掃除されてしまうという趣旨だろうか。また、極楽の乗物や是桐一葉」が辞世の句であるように、どちらも一葉を題材にしている。ペンネームの「小波」も、小さなさざ波を意味しており、一葉と共通する軽い感じがある。この人の句には「軽み」がある。

巌谷小波は、一生を通じて、お伽噺、口演童話、児童劇、お伽俳画、など近代児童文学の開拓者、イノベーターであった。この人のおかげで、近代、現代の日本の子どもの世界は豊かになったのである。