「沈寿官窯」(鹿児島県日置市)ーー「幾山河 越えつつ まろびつ 四百年」

鹿児島県日置市の沈寿官窯を訪問した。

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豊臣秀吉慶長の役で1598年に朝鮮半島から鹿児島に連れて来られた80人ほどの陶工たちは、串木野に43人、日置に10人、鹿児島に20人住まわされてた。20年かけて白薩摩の原料を発見する。また井戸の中よりさす光「井光黒」(いひかりぐろ)の黒薩摩もつくっていく。その子孫たちは、400年以上にわたって陶工として働いた。その代表が沈寿官窯であり、代々その名前を継いだ。現在は第15代である。

私は自分用の記念に「ぐいのみ」を買うことにしている。白薩摩は藩主たち用、黒薩摩は庶民用という説明だった。ということで、今回は白薩摩のやや大きいぐい飲みを買い、酒を飲んでいる。

延々と続く職人の伝統について、かつて江戸時代の三浦梅園は「一酌の水を海に入れたり。海の水増えたりというは愚かなり、されど増えざるというは偽りなり」と言ったと沈寿官窯の収蔵庫に書いてあった。これが伝統ということなのであろう。私は著作についても同じだと感じている。

2019年に92歳で永眠した14代は人間的にも優れた人物だったようで、司馬遼太郎棟方志功海音寺潮五郎田辺聖子、島津忠彦、石井好子谷村新司岡田真澄永六輔など、多くの同時代人と交流があった。小説家、俳人、学者、芸能人、芸術家、料理家、宗教家、政治科、皇族などがこの窯を訪れ、沈寿官との交流を楽しんでいる。

司馬遼太郎は、訪問した御礼の手紙に「陳寿官」と間違って書いたことを恥じた手紙を出していて、それが展示されていた。司馬遼太郎も誤字を書くのかと私も少し安堵した。大阪外語の同級生に作家の陳舜臣がいて、台湾への取材時に李登輝のインタビューをおぜん立てしてもらったこともあるから、つい間違ったのであろう。

「門外漢ながら、感に打たれました。それよりも何よりも御人柄のみごとさに感銘つかまつりました」とある。

司馬遼太郎は「故郷忘じがたく候」(文春文庫)を書いた。その本を送った1968年の書付には、「拙作書き終えて、ついに沈寿官先生の風韻に及ばざりしことを恥じるのみであります」とあった。

14代の言葉があった。「私たちは陶工です。四百年の一石は、自らの心の中に投げこまねばなりません」「幾山河 越えつつ まろびつ 四百年」

私は2014年に司馬遼太郎『故郷忘れがたく候』(文春文庫)を読んでいる。

故郷忘じがたく候 (文春文庫)

故郷忘じがたく候 (文春文庫)

 

16世紀末の秀吉の朝鮮出兵で、薩摩軍によって日本へ拉致された数十人の朝鮮の民があった。
その後、400年にわたって望郷の念を抱きながら、朝鮮の苗字を維持したまま作陶の技術をもって異国の薩摩に旧士族として暮らし続けた「沈寿官」家の生き方を綴った物語。
朝鮮の特色である白を使って進化させた磁器は、白薩摩と呼ばれ、国内はもちろん海外でも貴重品として扱われた。大日本帝国最後の外務大臣東郷茂徳が、この村の出身で朝鮮姓は朴である。

ソウル大学での講演で、「これは申し上げていいかどうか」と前置きして次のように言っている。この言葉が日本人によって語られるとすれば聴衆は黙っていなかったかもしれない。
「それを言い過ぎることは若い韓国にとってどうであろう。言うことはよくても言いすぎるとなると、そのときの心情はすでに後ろむきである。あたらしい国家は前へ前へと進まなければならないというのに、この心情はどうであろう」
最後に、「あなた方が36年をいうなら」「私は370年をいわねばならない」と結んだ。重い言葉である。

このエッセイのようなミニ小説のような不思議な書物について、司馬遼太郎は次のよう語って、書き始めている。
「このことをまがりなりにも整理するには小説に書いてしずめてしまうよりほかはないが、しかしいま小説に書くには気持ちの酵熟が足らず、気持ちのなかから沸き立ってくるあわつぶがすこし多すぎるようにおもわれる。以下、なにをどこから書くべきであろう」

興奮、疑問、感銘、、、こういったものを鎮めるために、司馬遼太郎は小説を書いていたということがわかった。整理して自分なりに納得できるようにする手段が小説を書く推進力だったのだ。

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「名言との対話」7月7日。サチェル・ペイジ「ふり返るな──何かにとりつかれる」

サチェル・ペイジ(Satchel Paige、本名:リロイ・ロバート・ペイジ(Leroy Robert "Satchel" Paige)、1906年7月7日?- 1982年6月8日)は、アメリカ合衆国アラバマ州モービル出身のプロ野球選手投手

アメリカニグロ・リーグの英雄サチェル・ペイジを扱った佐山和夫『史上最高の投手は誰か』(1984年刊行)を読んだことがある。著者の講演を「知的生産の技術」研究会で聞いたことがあり、その偉業に驚いた。59歳になってもメジャーリーグで登板を果たしたとは気が遠くなる気がする。野球史上最高の投手の一人と称される人物であり、ニグロリーグ時代に約2500試合に登板し、計2000勝以上をあげ、完封勝利350試合以上、ノーヒットノーラン55試合など超人的な記録を残している。佐山さんは、ベーブ・ルース学会、アメリカ野球学会で賞を受賞し、日本では2021年に野球殿堂入りもしている。

『史上最高の投手は誰(完全版)』(潮出版)を今回読んだ。2017年7月20日発行である。30年以上前の本に加筆修正し、再構成したものだ。

この本では、ペイジの投球はスピードとコントロールが抜群だっとしている。時速100マイル(161キロ)以上だった。当時の大リーグの投手は138キロであり、火の玉投手として有名なノーラン・ライアンの150キロほどであったが、「自分の速球がまるでチェンジアップに見えるほど」と述懐しているから、そのスピードの威力が想像できる。

大リーグは長い間、白人アメリカ人のリーグであった。アメリカの国技と言われるベースボールだが、黒人アメリカ人、アメリカ先住民、そして日本人のチームもあったのである。彼らの選手権は「裏ワールド・シリーズ」と呼ばれていた。日本人の「ニッポニーズ」は、小柄ながら、よく動いて、闘志あふれるプレイを見せると前評判が高く、新聞記事では「日本の野球は一級品」と書かれていた。1935年の「侍ジャパン」である。

サチェル・ペイジの言葉を拾ってみよう。

「一球投げてポップ・フライか何かで凡退させられるのがわかっている時、どうして三振を取る必要があるか」。ペイジは100球を超えて試合を終えるのを恥としていた。

「ミットをじっと出しておいてくれればいい。そこへ球を入れる」。ペイジはコントロールが抜群であった。

「大リーグ球団が私を必要とするまで、私は投げ続けようと心に決めた」。ペイジには42歳でようやく声がかかった。

「ふり返るな──何かにとりつかれる」。ペイジの処世訓のひとつである。ペイジは42歳で新人として大リーグに入り、59歳まで投げ続けたのだ。

大谷翔平がべースボールに衝撃を与えている。今日も7回100球で自責点ゼロの快投で、打者としては二死満塁で逆転の2点を奪う活躍をしている。こういうときに、黒人アメリカ人・サチェル・ペイジのことを知ることもいい。