耳読:童門冬二の語り下ろしシリーズ「内村鑑三」「吉田松陰」

オーディブルで、童門冬二が語る『内村鑑三が世界に紹介した「代表的日本」』を聴いた。内村鑑三の『代表的日本人』は、勃興しつつあった日本に関心をもつようになった世界に向かって、日本人という国民を紹介するのが目的だった。みごとな解説だった。私の「名言との対話」の参考にしたい。

続けて「聴く歴史・幕末新時代「若くして英傑を育てた吉田松陰の稀有な資質」」を聴いた。半藤一利の語り下ろしにも感銘を受けたが、しばらくは童門先生本人が語る歴史のシリーズを聴くことにしよう。

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週末の岡山、広島の旅にむけての連絡、準備など。ど。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」8月18日。石井光次郎「私蔵しておくのはもったいない。若い人のためになるなら」

石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年8月18日 - 1981年9月20日)は、日本政治家

福岡県久留米市出身。久留米商業、神戸高商業、東京高商業を卒業。内務省を経て、1922年に朝日新聞社に入社。専務取締役を経て1946年、日本自由党から初当選し政界に進出する。

以降政界の要職をこなしていく。商工大臣、運輸大臣自由党幹事長、副総理、行政管理庁長官、通産大臣法務大臣、そして最後は衆議院議長に就任している。落選時には朝日放送初代社長もつとめている。有能ぶりがうかがえる経歴である。

政界引退後は、日本ゴルフ協会会長、日本体育協会会長、横綱審議委員会委員長などもつとめている。こちらは人柄のよさがうかがえる役職である。1981年、92歳で死去。

次女はシャンソン歌手、エッセイストの石井好子である。

石井光次郎については、鳩山一郎首相の後継争いで、岸信介に対抗して石橋湛山との2位、3位連合で石橋首相が誕生したときのエピソードがいまも語られている。3位となった石井は、当然副総理となるはずだったが、1位であった岸に譲った。その数か月後に石橋が体調不良で辞任し、副総理であった岸が後継首相についた。恬淡とした石井光次郎はあと一歩、届かなかった。

1964年の東京オリンピックを成功させた「体協」会長であった石井は、代々木の屋内水上会場に掲揚されていた五輪旗をもらった。自分が持っているより、「若い人のためになるなら」と、母校である久留米商業に贈っている。2013年9月21日付の西日本新聞によれば、1974年から久留米スポーツセンターで行われた体育祭では、この五輪旗がたなびいていたという。68回生たちの思い出によれば、体育館で贈呈式が行なわれたこと、1965年の体育祭で旗をもって行進したこと、体育の先生が「オリンピッキ」と発音したこと、本部席の前で旗をパッとあげたこと、そしてオリンピック開催中の体育の時間はテレビ観戦だったことなどがあげられている。

以上のような生涯と公私のエピソードをながめると、栄誉には淡白な面があり、ただ一点、総理にまでは届かなかったのは残念だが、極めて有能であり、人柄も素晴らしかった人物であることは間違いないと思う。