「合併も 事故も技術も 巨大化す 人物だけは 小型化進む」

『名言の暦 大正から昭和へ編 上(1月-6月 誕生日)』の内容のチェックを行っている。改めて読み進めるなかで、新たな「名言」に出会うのが嬉しい。明日は、「下(7月―12月 誕生日)を取り上げよう。

ーーー

私はもう「自分の畑をたがやす」ことに専心します。

合併も 事故も技術も 巨大化す 人物だけは 小型化進む

光陰矢の如し。その矢は自分自身を貫いて飛んでいる。

おしゃれはおでかけのときの格好、身だしなみは日常生活できちっとすることだ。

歳をとって初めて出会う自分が面白くてたまらない。

健康は人間が自分に贈ることが出来る最高のプレゼント。

うかうか三十、きょろきょろ四十。

やらなければならない仕事がある。ということは、患者にとってはひとつの救いとなる。

ロボットを研究するには、仏教を学ばなければならない。

人がやらない仕事と人がやれない仕事にチャンスがある。

ミナマタは終わらない。チェルノブイリは続いている。そしてフクシマは始まったばかりだ。

成長するっていうことは、螺旋状にずうっと、だんだん天に近づいていく。

精神を集中するコツは、済んだことを忘れることだ。

身を修めるを趣旨とする「生涯学習」は、「平板な繰り返しの日常をあえて価値的な登り坂として受け止める思想」だ。

プロというのは、どんなときでもそれをやり抜いてびくともしないでやっているものです。

長生きの秘訣はトシのことを考えないこと。忘れているんですよ。

富国貧民の日本。

東洋の思想は「縁」という観念によってこの「偶然」を必然化した。

道というのは、「えらぶ」ものではなく、「見えてくる」ものであるらしいのである。

「広義の才能」とは、狭義の才能を生かす能力で、、、いわば自分で自分を育てる能力だろう。

音声によって手軽に読書が楽しめたり、情報の伝達ができればそれは本当に福音でしょう。

「女のくせに」への反発から始まり、「女だから」へと天職に向かう。

脳は外界と隔絶され、情報を遮断されると、急速に退化していく。

人間って守りに入った瞬間から年をとるんじゃないかしら。

根拠なき自己過信と底知れぬ無責任。

同じことを何回聞いても、いつもめずらしく思われ、はじめて聞いたように感ずることが信仰のうえでは必要である。

知の三角測量。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」8月31日。鏑木清方「毎日続けて行き変化させて行くところに、小説作家と似た興味も覚えていく」

鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年明治11年)8月31日 - 1972年昭和47年)3月2日)は、明治期から昭和期にかけての浮世絵師日本画家随筆家。(老衰)93歳。

近代日本画美人画。歌川豊国、歌川国芳月岡芳年河鍋暁斎鏑木清方伊東深水川瀬巴水と、その系統はまだ続いてている。美人画では、東の鏑木清方、西の上村松園とうたわれた。

2008年。鎌倉駅を降りて鶴岡八幡宮への近道である小町通りを数分歩くと雪の下という住所に鎌倉市鏑木清方記念美術館がある。

小町通りには、鎌倉彫、竹工芸、呉服、民芸、和菓子、古代美術店、納豆、しらす・干物、画廊、ブティック、和服・陶器、革工芸、漬物、という興味深い店が並び、平日でもごった返す通りだ。その通りを左に折れるとこの美術館がある。

近代日本画の巨匠・鏑木清方(1878-1972年)が、1954年(昭和29年)に文化勲章をもらった76歳からの晩年を過ごした住居とアトリエを遺族が鎌倉市に寄付し、この美術館が誕生した。
鏑木清方は長い画家生活で、築地明石町、朝涼、襟おしろい、虫の音などの美人画、涼み台、むぎ湯などの庶民生活画、慶喜恭順、大蘇芳年などの肖像画という三つの分野の絵を描いている。また、文学作品をテーマとした絵や、雑誌や新聞の挿絵も多く残している。

「秋の美」という企画をやっていた。水汲み、ほおずき、虫の音、菊、コスモス秋桜)、秋のおとづれ、などの作品を見ることができたが、「孤児院」という絵に魅せられた。上品なはかま姿の女性が孤児たちに贈り物を与える場面だが、暗い顔、疑い深そうな目、上目づかいなど、豊かな目の表情の描きぶりが目を引いた。この作品は、「最初は銅牌の賞を与えられたが、上村松園女史より一席上になった。」と述べている。

曲亭馬琴」では、28年かけて完結した「八犬伝」を題材にしたものだが、途中で失明した後は、息、琴嶺の寡婦お路に口受して続けた顛末「回外剰筆」にくわしいが、「仮名づかひ、てにをはだにも弁(わきま)へず。偏、つくりすら心得ざるに、ただことばのみを教えて書かするわが苦心は言ふべくもあらず。まいて、教を受けてかくものは、夢路を辿る心地して困じれ果てはうち泣くめり。」と文字を知らない口で述べた文章を書かせる苦労、そして書かせられる苦労を知った上で、それを絵にしている。

もともと挿絵画家として始まったキャリアの持ち主だが、「婦人世界」や「婦人公論」では、右のページが文章で、左のぺージが挿絵となっていて、白黒の小説の文章よりカラーの美人の方が目立つ。新聞の連載小説などで、作家と並んで挿絵画家が必ず並んで紹介されるというのを不思議に思っていたが、挿絵は小説のつまというより、読者にとってもっと大きな存在だったという伝統によるものだとわかる。

画室と呼ばれるアトリエは、12畳ほどの広さで、絵を描くための道具類が机の上に並んでいる。正面の扁額は「所作著御」という立派な字である。これは交流のあった尾崎紅葉の書である。
画家の絵を展覧している美術館では絵を堪能できるが、その画家が絵を描いた意図や言葉が残っている所は少ないので、何か物足らない感情が残ることが多い。しかしこの画家は絵はもちろん一級品だが、残している文章もいい。

代表作の一つである「一葉女史の墓」。
・「たけくらべ」最終の章の一節「或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外より差入れ置きし者のありけり、誰お仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆえとなく懐かしき思ひにて違い棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝へきく、その明けの日は信如がなにがしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとず。」絵にした美登利はその行間から生まれている。

・小説家と挿絵作家との関係を、私はかて大夫と三味線ひきにたとえて見た

・小説を熟読しましたうえ、画家が自分でその小説を解釈して挿絵を描くやうになったのであります。

画家は長寿の人が実に多いが、鏑木清方もこの家で93歳という天寿を全うしている。

・私は挿絵で生活を立てて来たのだが、勢い人物画に中心を置くやうになったが、肖像画を描こうといふ考へは持たなかった。、、、、人の伝記を面白く読むやうになってきた。、、、、。絵の方でも、かういう特殊の人間を出来るだけ内面的に深く究めて、伝記を書く気で描いてゆけば、肖像画もまたやりがひのある仕事となる。

・さしえは、いはば題を出されて歌や句をつくるやうなものだ。本画とはそこが違う。その点、拘束性があるわけだが、その拘束の中で仕事をすることに興味がある。この課題に対する興味が自由製作と異なるところで、それを毎日続けて行き変化させて行くところに、小説作家と似た興味も覚えていく。

挿絵から始まった画家のキャリアでは、人物の内面を深く掘り下げていく人物画に興味を持つようになる。毎回、伝記に挑むようになっていく。題材を自分で選んで絵を描くのは本筋であるが、鏑木清方は、与えられた制約の中で人物画を仕上げることに没頭していく。大きなテーマを持ちながら、小さな作品をコツコツと描き続けるのである。

この美術館を訪問したのは仙台から東京に職場を移した2008年だった。その後、2014年から命日と誕生日の人物をながめているうちに、2016年から「名言との対話」を始めた。2022年の現在、鏑木清方の言葉をよむと、同志的な親しみを感じている自分に驚いている。もう一度、この人の本を読みたい。