「たるんじゃったな、みんな」から始めるか。

「こころ」と「いのち」をテーマとした専門家の雑誌の企画に文章を書くことを依頼されている。「名言との対話」から、言葉を拾いながら構想を練っている。「たるんじゃったな、みんな」から始めてみようか。

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  • 人生は1冊の書物に似ている。ばかものたちはそれを急いでペラペラとめくっていくが、かしこい人間は、念入りにそれを読む。なぜならば、彼らはただ1度しかそれを読むことができないことを知っているから。(ジャン・パウル)
  • 大したことは、一身の晩年をいかに立体的に充実して生き貫くかというだけである。一切の無駄を排除し、優れた人物に接し、優れた書を読み、優れた芸術を教えられ、かつ発展していく以外、充実の道はない。(永田耕衣)
  • 生存するということは変化することであり、変化するということは経験を積むことであり、経験を積むということは限りなく己自身を創造していくことである。(アンリ・ベルクソン)
  • 人はまず何よりも自分自身であらねばならぬ。人のなすべき事は、自己実現であり自己拡大である。(林達夫)
  • 肝心なのは、より高く高くと、自ら求めて変わっていくこと。(俵萌子)
  • 私は今日は昨日より、明日は今日より善く生き、よりよく成長することに寿命の最後の瞬間まで努めよう。(野上弥生子)
  • それでも私は、「見るべきほどのことは見つ」と、まだ、言えない。(上田閑照)
  • 動けば必ず何かが変わります。動けば必ず何かがわかります。動けば必ず何か身につきます。動くことによってあなたは強くなってきます。(多胡輝)
  • この世で一番恐ろしいのは自分の目である。鏡の中に現れる自分の目こそが一番恐ろしい。(金大中)
  • 幸福と言うものが、案外にも活気を横溢したもので、例えてみれば船のへさきか濤をしのいで前進している。その時の困難ではあるが快さに似たものだ…(宮本百合子)
  • 私が何より憂えるのは、理想への情熱が失われ、人々の間に倫理への無関心がはびこり、個々人の刻苦勉励が逆に冷笑される、そのような風潮が日に日にあらわになってきている日本の社会の現状である。(森本哲郎)
  • たるんじゃったな、みんな。(岸井成格)
  • 人は組織からの引退や卒業はありえても、自分自身から引退することはできない。(出井伸之)
  • 日々新面目あるべし(会津八一)

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「名言との対話」9月3日。名取洋之助「撮るのは誰にでも撮れる。カメラマンとして大事な能力は、撮った写真を選別する能力だ」

名取 洋之助(なとり ようのすけ、1910年9月3日 - 1962年11月23日)は、日本写真家編集者。 

東京生まれ。父は実業家。母方の祖父は三井家四天王の一人の大分県中津市耶馬渓出身の朝吹英二(三井合名理事長)である。裕福な家に育ち、18歳でドイツにわたる。写真に興味を抱き、欧州最大の写真雑誌の契約写真家となった。単なるニュース写真ではなく、ドキュメンタリー性の強い写真を志した。

裕福な家庭に育ったコスモポリタンの名取は、人脈をフル活用しながら、「LIFE」の契約カメラマンにも登用されている。

1933年に「日本工房」を立ち上げ、1934年には日本を世界に紹介するグラフ誌「NIPPON」を創刊する。

戦後は『週刊サンニュース』を発行。ヘンリー・ルースが立ち上げたグラフ雑誌「LIFE」の日本版である。

名取は潤沢な費用をかけてハイクオリティを徹底し、破格の成果をあげている。報道写真の父でもあり、またプロデューサーとしての能力も高くデザインの父でもあった。

この過程で土門拳亀倉雄策などを育て、「名取学校」とも呼ばれた人材育成にも成功している。

岩波写真文庫』計286巻の編集者として完成させている。木綿、昆虫、アメリカ人、などさまざまのテーマを写真で語った。このシリーズは第1回菊池寛賞を受賞している。

ドキュメンタリー性を追求したフォトジャーナリストである名取洋之助は、クライマックス中心の写真ジャーナリズムではなく、「LIFE」が目指した原因追求型報道写真を生涯追い続けた。

2005年に「名取洋之助写真賞」が誕生している。35歳までの若手を顕彰する賞である。受賞者リストをながめると、2012年には安田菜津紀HIVと共に生まれるーウガンダエイズ孤児たち」が受賞していた。TBSのサンデーモーニングでよくみかける女性で、貧困や難民問題を取材している人だ。安田は25歳あたりで受賞している。

岩波新書『写真の読み方』は死後に刊行されたが、写真の撮り方の技術論ではなく、写真の読み方、見方という視点の本となっている。写真は誰でも撮れる。問題は撮った写真の選別と意味づけであるという主張だ。写真撮影は下手だったという証言もある。文章を書くのも苦手であったらしい。苦手な分野を忌避し、「報道写真」という新しい分野に切り込んだ名取洋之助は、黎明期の日本の写真界が得た貴重な人材であった。