「幸福塾」の「公人」の4回目。テーマは「美術館を遺した事業家たち」。

「幸福塾」の「公人」の4回目。テーマは「美術館を遺した事業家たち」。

f:id:k-hisatune:20220915045354j:image

以下、塾生たちの学び。

  • 本日もどうもありがとうございました。本当に贅沢な時間でした。最初の野田先生の逝去のお話、多くのことを知ることができました。とりわけ、肩書きに「初代」がつくものが非常に多かったこと、毎週の葉書通信「ラポール」が1000号に及んだこと、「偉大さは影響力」という言葉などたいへん印象的でした。今日は公人のNo4「美術館を残した事業家たち」。全く知らなかったのは「日本人は世界一美術館に通う」ということ。こういうことはもっと誇りに思ってよいのではないかと思いました。本日紹介された松方幸次郎(国立西洋美術館)、石橋正二郎(アーチゾン美術館)、大倉喜八郎(大倉集古館)、五島慶太五島美術館)、岩崎弥之助静嘉堂文庫美術館)、出光佐三出光美術館)、根津嘉一郎根津美術館)、山﨑種二(山種美術館)、原富太郎(三渓園)など。何度か行ったことのある美術館もありますが、実のところあまり創業者のことはよく知りませんでした。次回以降も楽しみにしています。
  • 本日もありがとうございました。公人の4回目、美術館を残した事業家たちのお話でした。美術館は、展示されている美術品はもちろんのこと、建物やお庭など気持ちが良く素敵なところばかりで、そちらに目がいってしまいます。今回、美術館ができるまでの事業家さんたちのお話は、戦争や政治がからみ、助ける方、など横のつながりのお話も伺うことができ、奥が深いと思いました。
    五島美術館山種美術館三渓園根津美術館など、いつか訪れてみたいところばかりでした。涼しくなってきましたのでよさそうですね。次回もどうぞよろしくお願いいたします。
     
     
     
    7人が既読
     
    いいね!
     
     
     
    コメントする
     
     
    送信
     
     
 
 
 
7人が既読
 
いいね!
 
 
 
コメントする
 
 
送信
 
 
  • 久恒先生、皆様、本日もお疲れさまでした。本日の幸福塾は「美術館を作った事業家たち」と題して9人の偉大なる事業家たちのストーリを堪能させて頂きました。成功した日本の事業家たちの多くが美術品蒐集という道楽にのめり込んだ。たとえ事業は滅んでも、集めた美術品は残るという事実の妙。日頃は社業で遊ぶ暇もなく、溜まった金で至極の一品を手に入れ慰めにしたか、はたまた「良いモノ」を見抜く眼力が有ってこそ本業での大成功が有ったのか…様々思いめぐらせました。生憎帰宅の車中での聞き流しとなり、メモが取れませんでしたが、印象に残った事業家二人について述べます。一人目は「松方幸次郎」と「国立西洋美術館」との関係。戦後没収品返還の際、仏政府が突きつけた「全てを収蔵する美術館」という条件に、日本政府は仏建築家「ル・コルビジュエ」の弟子(日本人建築家)3人の手による壮麗な建物(国立西洋美術館本館~後年世界遺産にも認定:2016年7月)で答えたという事実、真剣で誠意溢れるやり取りに心打たれました。二人目は「石橋正二郎」と「良いモノを見抜く眼力」。地下足袋~自動車用タイヤと戦前「ゴム製品」作りで躍進しますが、戦後物資が不足の中、ガソリンに代わり比較的入手が容易だった鉛(バッテリー)で「電気自動車製造」にも乗り出しています。設計は当時活躍の場を追われていた「元」航空技術者たち。事業家の「先見の明」とエンジニアの「モノ作り魂」は見事にスクラムし会社は本業のタイヤ事業に匹敵する規模まで隆盛。後年当時の世界水準を超える技術がウリとなったその会社は、ついに国産御料車を完成。第1号車を皇居へ納車した際の写真を添付致します(新車の傍らに立つ社長のどや顔がイイ)。有難うございました。
  • 久恒先生、本日はありがとうございました。「稼ぐより使うのが難しい」使うのが難しいくらい稼いでいるから出てくる言葉なのだと思いました。使い道の一つとして、美術品の収集、そして収集した美術品を展示するための美術館だと、気づかされました。事業家が設立した美術館は、結構あることに驚きました。 それぞれの事業家が何かしらのポリシーを持って収集されていたのか、それとも、お金の勢いで収集されたのかが、気になるところです。それぞれの美術館に実際に訪問することで分かるのかもしれないです。「下足番になったら、日本一の下足番になれ」目の前のことに無我夢中で取り組んだら、結果として幸せを掴んでいたという話と繋がると思いました。自分が励まされるフレーズになりました。やはり、自分次第なんだと、再認識することになりました。
     
     
     
     
     
     
    6人が既読
     
    いいね!
     
     
     
    コメントする
     
     
    送信
     
     
  • 久恒先生、みなさま、本日は幸福塾ありがとうございました。今日は「公人」の第4回目「美術館を残した事業家たち」ということで、9人の実業家と九つの美術館の紹介をいただき、とても面白い内容でした。日本は美術館の数や美術館を訪れる人の数が世界一とのこと。一般にはあまり知られていないことのように思われ、日本の良いところとして、もっとアピールしてもよいのではと思いました。カーネギー渋沢栄一など の「お金は使い方のほうが難しい」「金儲けだけでは恥ずかしい」との考えが、実業家の美術品収集の原動力になったという話や、 ヨーロッパやアメリカ、日本など、それぞれの国の歴史によって 美術品が集められていった過程や背景が異なっているといった話も興味深く伺いました。 また、 「庭造りが最高の趣味」 とありましたが、 美術館は、建物や庭も素晴らしいところが多く、良い時間を過ごすには最適な場所、と、改めて思いました。ありがとうございました。
     
     
     
     
     
     
    9人が既読
     
    いいね!
     
     
     
    コメントする
     
     
    送信
     
     

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」9月14日。原仙作「原の英標」

原 仙作(はら せんさく、1908年9月14日 - 1974年7月9日 )は英語教師英文学者。  

長崎県諫早市出身。旧制海星中学、長崎高商卒。朝鮮で教諭。戦後、旺文社主幹、編集顧問。傍ら、高校、短大、大学、予備校などの非常勤講師。武蔵野女子大専任講師を経て、1973年短大教授。

朝鮮時代の25歳の原仙作の著書『英文標準問題精講』は、1933年に刊行されたが、現在まで続くベストセラーで、「原の英標」と呼ばれる。『和英標準問題精講』、『英文法問題標準精講」を含め、大学受験生のバイブルであった。弟子の中原道喜(2015年没)が長くこのシリーズの補訂を行ってきており、現在もこの本は生きている、長い生命を持った本である。

学校法人海星学園のブログには、「100周年記念誌」についてのブログがあった。「覚先生の回顧録による」とある。仙作の2つ違いの弟は原覚という画家であったが、この学園の先生をしていたのであろう。学園同窓会室には「英標」を書いたタイプライターがある。二人の母はNHKラジオ講座で英文法の講義をする仙作の声に聴き入っていたという覚の回想が載っている。

「希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)」では、「出典研究の第一人者による頻出問題の宝庫」として「原仙の英標」を取り上げている。20世紀前半に出版された受験生用の学習参考書ランキングが紹介されているが、原の「英標」は堂々の5位である。トップは赤尾好夫編『英語基本単語熟語集』(1942年初版)だ。この本は「赤尾の豆単」と呼ばれたベストセラーで、私もお世話になっている。

「英標」は入試問題の出典と出題傾向が明示されて受験生には便利だった。原は「出典研究の第一人者」、「英語入試問題研究の第一人者」とも呼ばれていたという。

このブログに中に「昭和初期の入試に出た作家ベスト10」があった。10位は「自助論」で有名なサミュエル・スマイルズ、2位は「幸福論」を書いたバートランド・ラッセル、そして第1位はラフカディオ・ハーン小泉八雲である。このあたりは昭和初期の社会の雰囲気が感じられる。

このブログの筆者は、「英標」を質が高く、英文の量が多い、そして解説が深いと評価している。「語学力の進歩は努力の量に正比例する」という文言もテキストの中にあり、好きだと語っている。原仙作はこのような勉強の教訓の英文も意識して用いていたのだろう。

一冊の本が100年近くも後継者によって補訂されながら、命脈を保っていることに感銘を受けた。言語は生き物であり、入試の傾向も変化しているだろうから、常に最新の状態にしておく必要がある。これは大変な仕事だ。原仙作、中原道喜の後は、どうなったのか、興味が尽きないところである。

英語に生涯をかけた原仙作の努力の結晶は「原の英標」と呼ばれた。生命の長い代表作を持っていることで、刊行から100年近く、そして亡くなってから半世紀上にわたって、原の名前は生き延びている。この人は偉大な仕事をなした人だ。