今日のBSテレビ東京の日経スぺシャル「私の履歴書」は、MetaMojiの浮川和宣社長(「一太郎」のジャストシステム創業者)。野田先生追悼録(横野洋卯子)。

BSテレビ東京の日経スぺシャル「私の履歴書」の映像版をみました。

MetaMojiを立ち上げた浮川和宣社長は、一世を風靡した「一太郎」のジャストシステムの創業者。妻の初子専務は天才開発者。日経新聞連載中から毎日楽しんで読んでいたが、映像版ができたのだ。

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二人は愛媛大学の学生時代に出会い、妻の実家の徳島で起業し、成功した。その後、マイクロソフトのウインドウズに押され、業績が悪化。2009年に会社を譲り、浮川社長60歳の時に、新しい会社を起業。最初に徳島に建てたビルに徳島支社が入居し、そこを訪ねる映像もあった。社員は9割が旧ジャストシステムという。
インタビュー、社員とのやり取りをみていると、新しいフロンティアに挑もうとする姿勢と、夫妻の人間的な触れ合いに魅力を感じていることが伝わってくる。こういう会社で働きたいという人は多いのではないだろうか。
Metaとは「超える」という意味があるそうだ。人生の上り坂を息せき切って頂上に達し、そこから谷に墜ちていく、そういうドラマを経験し人生を一巡した。そして引退せずに、新しい地点に立って、還暦の60歳から再び、劇的なドラマを再現しようする意欲と、その後のゆっくりとした登りの10数年は人々に大きな刺激を与えるだろう。
2005年1月のブログには「2004年に一太郎・花子のジャストシステムと図解ソフトの開発に携わった。技術者との共同作業やアドバイス、議論は、新しい経験だった。異世界の衝突でいろいろ見えてきたものがある。今まで、図解ソフトの話が何度かあったが、いずれも実現することはなかった。出来あいのソフトではなく、図解専用のソフトが欲しいとずっと思っていたが、今回そのプロジェクトが「図解マスター」として実現した。プレゼンソフトとしていくつかのメジャーなパソコン・ソフトがあるが、図解に特化したソフトは初めてではないだろうか。よく使う基本パターンを用意してあるので、それを利用しながら楽に自分自身の問題を図解にできるという特徴がある。発売は2005年2月。私は監修者」という内容を書いている。このソフトは1万本売れてそこそこの成績だったと聞いた。
映像ではソフトバンク孫正義社長とのゴルフの写真が紹介されていたが、私もアスキー創業者の西和彦さんから、浮川夫妻のことは聞いていたことも思いだした。
私が仙台から表参道のジャストシステムに毎月通っていたのは、2004年で、まだブログをきちんと書いてなかったから、当時の経緯などは残っていないのは残念だ。
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野田一夫先生の訃報に接し、信じられない想いでいます。先生は100歳を超えてもお元気でいらっしゃるに違いないと思っておりましたから。
野田先生は宮城に新しい大学改革の風を起こしてくださったばかりでなく、地域活性化や地元企業家への働きかけなど、いつも先を見据えて道を指し示してくださった方でした。
野田先生が県立宮城大学の初代学長に赴任された年の9月宮城総合研究所という野田先生が立ち上げられたシンクタンクの講演会場で初めてお話を伺いました。その時の衝撃は忘れられません。舌鋒鋭く権力を批判されながら、新しい大学の希望に満ちた精神を熱く語られました。あ~宮城に新しい旋風が巻き起こったという思いにかられワクワクしたのを覚えています。
その後の4年間は初代学長として怒涛の日々をこなされたのですが、4年目が終わった時に東京へ帰られるかもしれないというお話を聞き、何とか野田先生を仙台にお引止めしたくて、久恒先生と相談し「野田一夫ファンクラブ」を立ち上げました。初代会長は松良千廣先生、副会長は千葉真知子さんでした。
ご自身のファンクラブを先生はことのほか喜んでおられました。私はそれ以来事務局長をずっとさせていただいておりました。
先生はその後4年ほど仙台に残られて、宮城のために応援し続けてくださったのです。
東京に戻られてからも2・3年に一度くらいファンクラブ開催時は仙台に来てくださり、親しく皆さんと語り合っておられました。
本当に大きな深い力を頂きました。そして今もその薫陶を受けた方々が第一線で活躍されています。野田先生に心から深い感謝の念と尊敬の気持ちを込めて、哀悼の言葉とさせて頂きます。

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ヨガ1時間。

大谷のピッチングを観戦。今日は珍しくリリーフに救われて14勝目。

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「名言との対話」9月24日。宇都宮徳馬「核兵器に殺されるよりも。核兵器に反対して殺される道を私は選ぶ」

宇都宮 徳馬(うつのみや とくま、1906年明治39年9月24日 - 2000年〈平成12年〉7月1日)は、日本政治家実業家

東京出身。旧制一中、陸軍幼年学校を中退。水戸高校でマルクス主義に傾倒し、京都大学経済学部で『貧乏物語』の河上肇教授に師事するが、不敬罪で検挙される。中退し日本共産党に入り、1929年に治安維持法で1年間投獄される。

獄中で転向し釈放されて、株式投資で大金をつかみ、ミノファーゲン製薬という製薬会社をつくり社長に就任。

1952年、衆院選挙で自由党から初当選。1955年の保守合同自由民主党の結党に参加。党内では異色のリベラリストで、ロッキード事件金大中事件などに憤激し、議員辞職。1980年参議院選挙で無所属で当選。1986年、新自由クラブから参院選で当選。2000年、93歳で死去。月刊誌「軍縮問題資料」創刊し、日中友好協会会長などで活躍した。

日中国交回復交渉の過程では、中国政府高官から「ドイツの例を見ても戦争に負けた国に賠償金を求めても平和な関係は築けない」と聞き、心の中で手を合わせた。北朝鮮金日成との会談では「政治家は一代限りにすべきです」と諫言。金日成は「本当の友人の直言はうれしいののだ」と応じた。

宇都宮の師の石橋湛山は、世界で活躍するためには大日本主義を棄てねばならないという考えだった。「満州・台湾・朝鮮・樺太等も必要ではないという態度で出づるならば、戦争は絶対に起らない。従って我が国が他国から侵さるるということも決してない」。そして中国、東洋の弱小国全体を道徳的支持者とすることが日本にとっての大きな利益となると説いている。それが「小日本主義」である。

湛山の弟子・宇都宮徳馬に師事した田中秀征は、この考え方を「質日本主義」と言い、佐高信は、「良日本主義」と呼んでいる。

小日本主義、質日本主義、良日本主義と、どのように呼ぼうと、石橋湛山宇都宮徳馬田中秀征と続くリベラルの流れは、大日本主義と対峙する貴重な流れである。その宇都宮が後世に残したこの言葉には重いものがある。

コリアレポート編集長の辺真一が7月17日に「半世紀前から国会で追及されていた「統一教会」 1970年代の「国会審議」」という文を発表しているのをみつけた。この中で1977年5月25日の衆議院法務委員会での宇都宮徳馬の発言を紹介している。

 

「この日は野党議員だけでなく、与党・自民党からも宇都宮徳馬議員が質問に立った。野党議員は主に統一教会の入信者に対する「暴行事件」や大量の朝鮮人参販売をめぐって質疑したが、前年の衆議院選挙で国際勝共連合から組織的な選挙妨害を受けた宇都宮議員は自らの体験を基に以下のように国際勝共連合の実態について明かしていた。」

「私(宇都宮徳馬)の調べたところでは、勝共連合統一教会は大体一体の団体である。つまり、統一教会というものがいろいろな下部団体を持っていて、例えば、世界日報というものもあります。それから統一産業という商事会社もありますけど、これは一つの集団がいろいろ分かれていて、それで統一産業から統一教会に行くとか、お互いに幹部の更迭なんかをしています。ですから国際勝共連合というのは中心の指導者は文鮮明(教祖)であり、そしてその成員も結局、統一教会の人たちで構成されています」

核兵器に殺されるよりも。核兵器に反対して殺される道を私は選ぶ」は、りべらりストの面目躍如の言葉である。こういうリベラルの系統の流れが自民党にもあったのだ。

宇都宮徳馬という政治家の学生時代からの続いた波乱万丈の生涯をさらに追いたい。