「世界を知る力」対談篇「VRC」「JX通信社」。ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の収録「古川薫」「川田龍吉」

寺島実郎の「世界を知る力」対談篇。

  • 三井物産創業者・益田孝「企業は時代のニーズの産業的解決者」。「ビッグデータ・ビジネスという大構想」。「ジャーナリズムは信頼がキーワード」。「ベンチャーのダイナミズムと大企業の資源の賭け合わせ。ベンチャーの技術と大企業の信用力」

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  • (株)VRCの謝英弟社長。「画像技術(AIと3D)による3次元空間情報技術の事業化。リアルアバター技術。アパレル(バーチャル試着。立体裁断)。ヘルスケア(健康状態。将来の体型シミュレーション)。個人情報はクライアントに提供しない方針。先行事例がないため導入に躊躇するのが苦労」。
  • JX通信社の米重克洋社長。「ビジネス・ジャーナリズム。ニュース配信。ビジネスとジャーナリズムの両立。JASTALERT。AIで瞬時に分析(数秒ー数十秒)しメディアに届ける。投票行動のデジタルシステム化。報道局の労働集約体質(電話、対面)の改善。スマホで情報をもらい、最大100万円のポイント。「実相を得られた」。投票へのモチベーションアップ。報道を金にかえて報道に戻す。ニュースアプリ。早く、安く。コストセンター体質の改善。ニュースのメルカリに。1億人が1億人に発信する時代に。消費者が消費者に情報を提供する時代に。それに信頼性を付与する役割」。

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ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の収録。

生涯にわたり故郷・下関で健闘した小説家・古川薫。享年92。新聞社在任中の40歳から直木賞候補になること実に10回目で受賞。65歳の受賞は最高齢だった。長州・山口・下関にこだわって歴史と人物を掘り起こし続けた人だ。「樹液の環流を聴く樵(きこり)のようでありたい」。

男爵イモ」の開発者・川田龍吉。享年95。「生まれは南(土佐)、最後は北(北海道)、江戸ー昭和(戦後)」という壮大な空間と時間を生きた人。実業家を引退し、55歳から寒冷地農業に挑み、ジャガイモを輸入し「男爵イモ」をつくった。飢饉を回避することができて道民に感謝されている。

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「名言との対話」9月25日。石橋湛山「本を読んだら、そこに書いてあることを絶えず実際の問題に当てはめ、自己の思考力を訓練し、学問を実際に応用する術を体得しなければならない」

石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年明治17年〉9月25日 - 1973年昭和48年〉4月25日)は、日本ジャーナリスト(東洋経済新報社長)政治家(総理大臣)教育者立正大学学長)。

62歳、吉田内閣大蔵大臣。63歳、公職追放。68歳、立正大学学長(16年間、84歳まで)、70歳、鳩山内閣通産大臣。72歳、総理大臣。88歳、「石橋湛山全集」15巻完結。死去。

 2017年に山梨平和ミュージアムーー石橋湛山記念館を訪問したときに、案内していただいた浅川保理事長の『偉大な言論人ーー石橋湛山(山日ライブラリー)を読んだ。

山梨一中校長の大島正健は札幌農学校第一回卒業生で13年5ヶ月にわたり校長を務めた。湛山が薫陶を受けたのはわずか1年だが、大きな影響を受けた。湛山はこの甲府中学へは2年早く入学できたが、2年落第している。湛山は中学時代から校友会雑誌などで活発に文章を発表している。甲府から石和、勝沼、笹子などへの旅行記は若さゆえの大胆さとユーモアに溢れている。また論客であり、「石田三成論」では、「成敗と是非とは判然別事に属せり、成敗は当時の形勢によりて別れ、是非は後人の公説によりて定まる」と主張している。卒業時、53名中17番。一高受験失敗、翌年も失敗し、早稲田へ入る。

以下、湛山の主張から。

明治神宮の建設ではなく、日本と世界の人心の奥底に明治神宮を打ち建てよ。明治賞金(ノーベル賞のような)を設定せよ。

帝国主義大日本主義を批判し、平和主義である小日本主義を主張。「一切を棄つるの覚悟」では、「我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていること、志の小さいことだ」と断じた。満州や朝鮮の領有が経済にも人口問題に解決にも役にたっていないことを指摘し、「満州を棄てる、山東を棄てる、その他志那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる」「世界の弱小国は我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう」「従来の守勢から一転して攻勢に出でしむるの道である」。「兵営の代わりに学校、軍艦の代わり工場を」。「帝国議会の会期3ヶ月を改めて常設」を主張。

・現代の人心は何故に浅薄弱小なのか。自己の立場についての徹底した智見が欠けているからだ。

石橋湛山という政治家は、総理大臣の椅子を病気によって71日という短い期間で潔く退くという見事な出処進退と、日本の進むべき道として「小日本主義」を唱えたことで知られている。湛山は72歳で総理になり、亡くなる前年に「石橋湛山全集」15巻を完結させ、4月25日に88歳で大往生した。

湛山はリベラリズムを標榜した政治家であった。組織、国歌、イデオロギーから自由であり、人間第一、個人第一の思想がリベラリズムである。

石橋総理の国民へのメッセージは「国民諸君、私は諸君を楽にすることはできない。もう一汗かいてもらわねばならない。湛山の政治に安楽を期待してもらっては困る」であった。

湛山は中江兆民福沢諭吉を評価している。特に福沢の「縁の下の力持」は処世の教科書として、福沢を尊崇している。これは読まねばならない。

本を読んだら、理論を学んだら、実際の問題にあてはめてみるのが真贋を見分ける一番いい方法だ。適用できなければ、理論を疑おう。理論とはモデルのことだが、そのモデルが応用範囲が広ければ大理論だ。狭い範囲しか提供できなければ小さな理論だ。石橋湛山という人物はマスコミ時代からそういう勉強法を採用していたのだろう。だから、政治家になってもそのまま通用する経済理論を持っていたのだ。