小田原から湯河原へ。万葉歌碑と美術館の旅。

妻の万葉歌碑の旅につきあう。

小田原の万葉歌碑。足柄郷発祥の地。

東道の手児の呼坂越えかねて山に寝むも宿らはなしに


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湯河原の万葉歌碑。
足柄の土肥の河内に出づる湯河の世にもたよらに児ろが言はなくに


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湯河原町立美術館は、町立であるが、充実した美術館。平松礼二館。平松礼二アトリエ。

日本画家だが、フランスで勲章をもらっている。1941年生まれでまだ現役。箱根の成川美術館でこの人の企画展を見たことがある。


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万葉公園の滝。


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矢部友衛作品展。

1892年から1981年。大正から昭和にかけて前衛美術の旗手。戦後はプロレタリア美術を代表する画家。


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料理を主とする宿。オーベルジュ湯楽。


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「名言とほ対話」10月6日。ル・コルビュジェル・コルビュジェの何かを日本に残したい」

ル・コルビュジエLe Corbusier[注 1]1887年10月6日 - 1965年8月27日)は、スイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリ(Charles-Édouard Jeanneret-Gris)。

モダニズム建築の巨匠といわれ、特にフランク・ロイド・ライトミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」として位置づけられる

石や煉瓦を積み上げてつくる建物が主流の時代に鉄筋コンクリートという新しい素材を得て、革命的な建築物を生み出した、建築家ル・コルビュジエ。生涯にわたり探究心と創造力に満ちあふれた人物だ。

偉大なル・コルビュジェは77年の生涯で320以上のプリジェクトを手がけたが、実現したのは76件で、勝率は2割3分だった。この人にして安藤忠雄の著書のタイトルのように「連戦連敗」なのだ。建築家とは厳しい職業だと改めて思った。20世紀を代表する建築家は、絵画、彫刻、版画、タピスリー、映像などの分野にわたって活躍した多才な芸術家でもあった。朝はアトリエでの絵画を制作し、午後は設計事務所で仕事をするのが日課だった。

日本におけるル・コルビュジェ唯一の実作は資金世界遺産に登録された「国立西洋美術館」であるが、その影響力は甚大であった。パリのアトリエで学んだ3人の弟子たち(前川國男、坂倉準三、吉阪隆正)によって、多くの作品と人材が誕生したのである。

前川 國男(1905年5月14日 - 1986年6月26日)は、東京帝大卒業後、ル・コルビュジェの事務所に入所し、帰国後建築設計事務所をひらき、丹下健三らを育てる。前bの作品は、以下。 紀伊國屋書店、慶応大学付属病院、国際文化会館などを設計。70歳を過ぎてから各地の美術館を設計する。東京都美術館弘前市美術館、熊本市美術館、山梨県美術館、国立西洋美術館福岡市美術館宮城県美術館国立国会図書館、、。日本の公共建築に大きな足跡を残している。

坂倉 準三1901年明治34年)5月29日 - 1969年昭和44年)9月1日)は、東京帝国大学文学部美学美術史学科美術史卒業をし、フランスに渡り、パリ工業大学で学ぶ。1931年 前川國男の紹介でル・コルビュジエ建築設計事務所に入る。1936年に帰国。パリ万博の日本館建設のため、再びフランスへわたる。この設計でグランプリを獲得している。帰国後の1940年には坂倉準三建築研究所を設立。1964年には日本建築家協会会長となる。坂倉準三は「ル・コルビュジェの何かを日本に残したい」と語っていた。坂倉の代表作の「旧神奈川県立近代美術館鎌倉」は日本初の公立近代美術館で、1951年開館、そして2016年に閉館している。ここには師のコルビュジェも訪れている。鶴岡八幡宮によって、2019年より「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として運営されているから、今でもこの無限成長美術館の概念に基づいた建築をみることができるようになった。坂倉が設計した渋谷の東急文化会館の映画館の中に、コルビュジェが設計した世界最大級の緞帳が保管されている。軽井沢のレストラン「ドメイヌ・ミクニ」も坂倉の作品である。

吉阪隆正(1917年2月13日 - 1980年12月17日)は、早稲田大学大学院助手を休職し渡仏し、ル・コルビュジエのアトリエに勤務。帰国後の1953年、大学構内に吉阪研究室(後にU研究室へ改称)を設立、建築設計活動を開始する。浦邸、大学セミナーハウス、江津市市庁舎は日本のモダムーブメントの建築に選ばれている。またアテネフランセが、日本建築学画家気象を受賞している。

3人以外にも、今井兼次、丹下健三安藤忠雄、伊藤豊雄、谷口芳郎などもの著名な建築家もル・コルビュジェの影響を受けている。

坂倉の「ル・コルビュジェの何かを日本に残したい」と考えていたが、「何か」どころか、愛弟子の3人と彼らによる数々の近代建築と、その影響を受けた多数の建築家を育立てと言ってよいであろう。ル・コルビュジェは日本の多くの財産を遺してくれた。そしてその影響は今も続ているのだ。