「心の専門家」の臨床心理の研究者に交じって「ACADEMIA」へ寄稿する論文を書く。

一般財団法人全国日本学士会という75年の歴史を持つ組織がある。この財団は、内外の学術・文化・教育に関する資料収集に基づき、会報「ACADEMIA」をテーマ別特集にそって発行している。年4回、60有余年に渡り継続的に発行されている。

会誌アカデミアのイメージ

この特集の責任者である藤原勝紀京大名誉教授から論文執筆の指名を受け、数カ月かかって、執筆、推敲を重ねてきた。主たる書き手は「心の専門家」である臨床心理の研究者である。特集テーマは「こころ・いのちに応える人間関係ーーコロナ危機にみつめ考える」だ。

この特集の目次案をながめる。「人間環境」「心理臨床」「悲嘆」「震災」「臨床心理士」「スクールカウンセラー」「小児科医」「国際支援」「人権教育」「いのちの電話」「生きるということ」「ストレスマネジメント」「若き専門家たち」などがでている。

こういった分野の門外漢である私は「ライフコンシャスの時代に」というタイトルで、5000字ほどの文章を書きあげて、本日提出した。12月発行予定。

以下、私の論文のキーワード。「ライフコンシャスの時代」「生活」(くらし」「人生」(ひとよ)「生命」(いのち)「外的世界と内的世界」「人間観のゆらぎ」「人生観のゆらぎ」「モデルなき時代」「大人のための人物伝」「人生100年時代」「新・孔子の人生訓」「公・私・個」「豊かさとは自由の拡大」「カネ、ヒマ、カラダ、そしてココロ」「名言・至言」「完全な自己」「人間関係」「全体観」「原型」。

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明日の「幸福塾」の準備。

ウォーキングでは「NHKアーカイブス 声でつづる昭和人物史」の古葉竹識監督編1・2を聴いた。肥後もっこすの典型の指導者の人生論。8千歩。

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「名言との対話」10月11日。榎本健一「大悲劇として演じなけりゃお客は目や耳には届いても、心に届く喜劇はなんねェョ、、」

榎本 健一(えのもと けんいち、1904年10月11日 - 1970年1月7日)は、日本の俳優歌手コメディアンである。

榎本健一の自伝が載っている『日本人の自伝22』を読んだ。

東京都港区青山出身。高等小学校卒業時、「僕にとって学問をするということは、あんまり好きでないそばを食わされるようなもので、それから解放されたんだから世間がいっぺんに花が咲いたように明るくなった」。

いろいろ回り道をして17歳でようやく浅草の根岸歌劇団に入る。浅草オペラ界隈でコーラス、寸劇などをてがけ、一座を立ち上げる。ワンパクで運動神経がよかったエノケンは、水を得た魚にようになじみ頭角をあらわし、オペラ、無声映画へ出演していく。当初は浅草を拠点としていたが、「エノケン」の愛称で広く全国に知られていった。「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で活躍した。

この間、毎日の新聞で関心を集めたニュースなどを舞台に取り入れている。歩いていてもそうだし、いろいろの職業の人の仕事ぶりを観察するなど、日頃から熱心な研究家だった。浅草の客は目が肥えていて厳しい。勉強している俳優はどんどん人気が出る。スピーディで気の利いたギャグを次々に考え出して舞台にぶつけたエノケンは人気がでた。

松竹座で座員150人、オーケストラ25人という日本一大きなエノケン劇団が発足する。そこからエノケンの全盛時代が始まる。エノケンはどんな芝居でも基礎を真剣に勉強して、それから自己流にくずしていった。だから長続きしたのだ。

浅草の松竹座で常打ちの喜劇を公演し、下町で人気があったエノケン。学生などインテリ層をターゲットとしたモダンな喜劇の古川ロッパ。二人は「下町のエノケン、丸の内のロッパ」として競い合った。

 井崎博之『エノケンと呼ばれた男』を読んだ。多くの同時代の人たちがエノケンについて語っている。

  • 永六輔「ジャズのリズムに、はじめて日本語を乗せた人。歌とアクション、ギャグの積む重ね、テンポのよさでひとつのジャンルを開いた人」
  • 柳家金語楼「エノさんの場合は、芸が服を着ている人だと思えば、、
  • 佐藤忠男「ロッパや金語楼やシミキンの作品が映画史には忘れられ、エノケンの作品だけは残っている」
  • 山本嘉次郎「不世出の喜劇俳優と評価された根底のひとつには、彼の非凡な運動神経がある」
  • 菊田一夫「日本には、あなたの資質を完全に生かし切る作家が一人もいない」

エノケン自身はどう考えていたのか。

「自分の可愛がっている若い者が世に出るときが一番うれしい」

「感動をもったうけにするには演っている者が気迫をこめて演じることだ、、大悲劇として演じなけりゃお客は目や耳には届いても、心に届く喜劇はなんねェョ、、」(弟子の財津一郎

「新しい僕だけにしかないような喜劇を創造しなければならない」(右足を失ったとき)

「わたしは役者で、役者は、自分で、これでいいと思うことなどないものです」

テアトロン賞、NHK放送文化賞、紫綬褒章を受章した年には、日本でも喜劇がようやく認められたと喜んでいる。最後の言葉は「ドラが鳴ってるよ、早くいかなきゃ」だったという。

飛んだり、ハネたり、スベッタリ、転んだり、人の頭を叩いて笑わせるのは本物ではない。喜劇はまともな芝居である。まともな芝居の中から、自然に笑いが湧いてくる。それが本当の喜劇である。これがエノケンの喜劇観である。エノケンは子ども時代にテレビで楽しんだ記憶があるが、こういう考えで喜劇を演じていたことを知った。エノケンは日本の喜劇王だといわれる。庶民がつけた愛称だから価値がある。