東京都美術館「岡本太郎」展。国立西洋美術館「ピカソ」展。岡本太郎はピカソをライバル視していた。

14時から東京都美術館で始まった「岡本太郎」展。橘川さんの、東京芸大卒の「深呼吸学部」のメンバーらとは、終了後、上野公園のカフェで歓談した。

岡本太郎については、記念館、美術館、企画展などを訪問して来たので、今回は、平面の絵画ではなく、立体の造形物を見ることにした。さすが、上野の美術館だけあって、著作権問題のある動画以外は、すべて撮影可能だった。

 


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橘川。おこちゃん。たまこ。エイミー。

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せっかくの上野なので、11時過ぎから、国立西洋美術館で開催中の「ピカソとその時代」展(ベルリン国立ベルクグリューン美術館)をみてきた。ハインツ・ベルクグリューンという画商・コレクターを知ったのも収穫だった。この人は画商として、ピカソなどの絵を扱いながら、いいものを手元に置いていたというやり方でコレクションをつくった。後日、報告予定。

昼食は、西洋美術館のレストランで、カレーとワイン。

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「名言との対話」10月28日。久保田権四郎「外国人にできることが、日本人のでけんはずはない」

久保田 権四郎(くぼた ごんしろう、久保田 權四郎、明治3年10月3日1870年10月27日) - 昭和34年(1959年11月11日)は、実業家発明家。久保田鉄工所(現クボタ)創業者。前名・大出權四郎。

広島県尾道市因島出身。15歳で鋳物屋の小僧として出発。朝6時から夜10時までの仕事を3年半続け、100円の貯蓄をし、20歳で独立し、大出鋳物を設立。権四郎を見込んだ久保田藤四郎の会社を継がない条件で養子となる。1897年に久保田鉄工所と改名。

口径10センチの直管を発明。コレラなど伝染病対策のために輸入していた水道管の国産化に成功した。「日本の水道管の歴史はクボタの歴史」といわれるようになる。

久保田権四郎は、発明家・実業家として、紡績、工作、農機などの機械や、満州や尼崎での会社を経営している。自動車にも手を染めているが、日立金属の子会社と合併してダット自動車製造株式会社となった。後の日産自動車である。

1947年、耕うん機を開発。1949年に社長を退任。1その後もこの会社は、1955年、企業スローガンを「国つくりから米つくりまで」と制定。1992年に企業スローガンを「美しい日本をつくろう」、、、。久保田は今では世界的農機具メーカーのクボタとなった。

久保田権四郎の発明家としての業績は、特許70、実用新案150余であった。社長退任後には、学校教育の支援、郷里・因島道路建設などに私財を投入している。

この人の経歴で目立つは、「褒章」などの受章や「勲章」が多いことである。1923年紺綬褒章公益ノ為私財ヲ寄附シ功績顕著ナル者)、1928年緑褒章(自ラ進デ社会ニ奉仕スル活動ニ従事シ徳行顕著ナル者)、1943年勲五等瑞宝章国家又ハ公共ニ対シ積年ノ功労アル者)、1953年藍綬褒章教育、医療、社会福祉、産業振興などの分野において、多年の努力により公衆の利益に貢献した者)、1953年勲三等旭日中受章(公務員、貢献の大きい企業の成功責任者)。これらをすべて兼ねた人物は珍しい。

創業者の久保田権四郎の言葉をクボタのホームページから拾ってみよう。

「自分の魂を打ち込んだ品物を作り出すこと、又其の品物には正しき意味に於ける商品価値を具現せしめること」

「国の発展に役立つ商品は、全知全霊を込めて作り出さねば生まれない」

国士的人物の香りがする。この人の発明や実業の成功の源は、「外国人にできることが、日本人のでけんはずはない」という精神であろう。ここで思い出すのは島津斉彬薩摩藩反射炉建設にあたって言ったとされる「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり、くじけずに研究せよ」だ。人ができたことは、自分たちにできないはずはない。彼にできたことが、自分にできぬはずがない。こういった考え方が、近代日本をつくってきたのだ。