ユーチューブ「遅咲き人伝」をリリース。
取り上げたのは小説家の野上弥生子。享年99。
https://www.youtube.com/watch?v=OuSlVfbSHWA
以下、野上弥生子の言葉から。
- 「日本でも画家は七十八十でなほ本格的な仕事をすてないのに、文学者には一人もないなら、私がその一人になって見ようか。」(70歳)。
- 「私は今日は昨日より、明日は今日よりより善く生き、より善く成長することに寿命の瞬間まで努めよう。」
「書くまでは思いもつかなかった事が、書くあいだに順々に出て来て、こんな片々たるものでもよい思ひつきであったと自分で考へられる考へや表現がある。それでこそ執筆は怠ってはならない。書かなければ、現はれるものも、現はれないで終るのだから。」 - 「一日のことは、その日だけに生じ、感じ、出逢ふもので、一生にもう一度といふことのないものだけ、どんな無為で変化のない日でも、その人にとっては大切なものと知っていながらこの怠りを繰り返すのは残念である」(38歳から62年間ほとんど毎日書いて1.9万枚で単行本63冊相当)
- 「一日怠ればその日はただ水の泡として消え」る。
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・東京MXテレビの「世界を知る力」の内容は、明日記す予定。
・「図解コミュニケーション全集」第6巻の見本が到着。
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「名言との対話」11月20日。田嶋一雄「難有り有難し」
田嶋 一雄(たしま かずお、1899年11月20日 - 1985年11月19日)は、日本の実業家。ミノルタカメラ(現:コニカミノルタ)創業者。
和歌山県海南市出身。慶應義塾大学経済学部卒業後、日本電報通信社(現在の電通)に入社。関東大震災を機に、神戸市で父が経営する田嶋商店に入社した。1927年、父にすすめられて中近東、東欧への日本商品旅商団の一行に入り6カ月の旅に出る。行程終了後、同郷の日疋誠(仏国通商パリ支配人)を訪ねる。フランス第一の光学兵器会社を見学したとき、「光学兵器は難しく日本では作れない」と日疋から言われ、興味を持った。
帰国後、カメラ製造を決断し、「日独写真機商店」で操業を開始し、国産カメラの製造に取り組む。
1929年に第1号機「ニフカレッテ」、1931年に第2号機「ミノルタ」、そして1935年には国産初の二眼レフカメラ「ミノルタフレックス」を開発した。1937年、千代田光学精工(株)に改組。戦時中は海軍士官用プリズム双眼鏡を製造。
1962年、アメリカ初の有人衛星に「ミノルタハイマチック」が搭載され、このカメラで写した地球の写真が世界中に配信されm宇宙を飛んだカメラになった。この年、ミノルタカメラ(株)に商号を変更した。田嶋光学機器(Machinery and INstruments OpticaLby Tshima)からMINOLTAと命名した。「稔る田」の意味も含んでいるそうだ。
1983年に会長となったが、開発の仕事は続けている。「ミノルタベスト」の試作機を問屋に持ち込んだ時には、誰もが「こんな常識はずれのものは売れませんよ」という態度であった。「売ってみなければわからないじゃないか」とたった一人が言ってくれて、後にこの製品はヒット商品となった。
1985年には世界初の本格オートフォーカス一眼レフカメラ「α-7000」を発売し、国内外で史上空前の売れゆきとなった。このカメラは私も購入し、子どもが小さかったこともあり、野外やプールなどで写真を撮りまくった。懐かしいカメラである。
田嶋一雄はカメラ以外にも、複写機、マイクロ写真機器などにも事業を拡大している。順調に成功したようにみえるが、さにあらず。座右の銘は「難有り有難し」であった。
難は困難ではなく、「艱難」である。襲ってくる艱難を必死で切り抜けてきたのだろう。そしていつか艱難はありがたい神からの試練であるというまでに至ったのだ。
「艱難」という言葉は、今では死語のようになっているように感じる。あまり使わなくなった。今までこの言葉を使った人を調べてみた。
- 島津源蔵(島津製作所の二代目)は「事業の邪魔になる人」として「艱難に堪えずして途中で屈伏する人」をあげている。
- 西郷隆盛「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
- 清水安三(桜美林学園創業者)は「どんな艱難にあっても希望の光を灯し続ける心を育てる」ことを教育方針としている。
- 土光敏夫(経団連会長)「我に艱難を与えたまえ」
- 森鷗外(文学者)「君も往きたまえ、艱難の道を」
- 浜田耕作(京都帝大総長)「艱難は漬物の重しようなものでこれなくしては人間に味が出てこない」
- 徳間康快(実業家)「人間的魅力だ。これさえあれば、あらゆる艱難辛苦は乗り越えられる」
- 東郷民安(実業家)「艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずることを知ればなり」
- ヒュー・ミラー(独学の地質学者)「私が唯一正しい教えを受けたのは、世間という学校である。そこで艱難辛苦という厳格で高貴な教師にめぐりあった」
- 高杉晋作「艱難を共にすべく、富貴を共にすべからず」
- 教育勅語における修身の教科書「艱難汝を玉にす」
田嶋一雄の「難有り有難し」は、このような系譜の中にあるのだが、「有難し」の前にさらに「有り」をつけて、二重に有難がっているのが他の人にない特徴だ。どうしてそうなったのか、この人の伝記を読みたいものである。