NHKラジオ「声でつづる昭和人物史」ーー柳家金語楼。沢村貞子。矢内原忠雄。


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NHKのカルチャーラジオ「声でつづる昭和人物史」を、よく聴いている。最近では、落語家の柳家金語楼、脇役の名優でエッセイストの沢村貞子、東大総長の矢内原忠雄を聞いた。NHKラジオに出演したときの本人の肉声が聴けるのでいい。また保阪正康さんの解説がいい。

毎週やっている「ヨガ」。今日は、いつもより強烈だった。

川柳は、今日もノルマの7句。

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「名言との対話」12月10日、長谷川才蔵「私たちは目に見えない大きな力に生み出され、生かされるいのちに感謝し受けつぎつないできた美しい日本の精神性を大切にし、心、いのち、人との間の豊かな関係を深めてまいります」。

長谷川才蔵(はせがわさいぞう 1906年12月10日ー1982年8月20日)は、実業家。仏壇のはせがわの創業者。

『銀座人インタビュー』に、ICHIBANKANの渡辺新が、(株)はせがわの現在の社長の長谷川房生(1946年生)が、インタビューに答えて創業者の父のことを語っている。

福岡県直市出身。6歳で父を亡くし、10歳で母を亡くす。丁稚奉公の先が、家具と仏壇の店だった。学問をする家系だったため、勉強にも励む。感銘を受けたのが、渋沢栄一の通信教育で「実業講習録」を読んでいた。「社会に対する責任」「実業家の第一に心がけるべきは信用」ということを学んだ。

1929年、直方市に「長谷川仏具店」を創業。1953年、母の出身地の奄美大島に家族で帰る。それまでアメリカが統治していて日本に返還された。20年ぶりに40歳の母は、その母と姉妹と会う。49歳の長谷川は家族の、母の深い愛情を知り、義母を実の母のように、「お母さん」と呼べる幸せを感じ、福岡に連れて帰った。

それまで軍隊調で仕事も、家庭も厳しくやっていたが、「感謝」という言葉を使うなど、大きく変化した。

渋沢栄一の「道徳」に「愛情」が加わった。正しさをいう道徳では、信用を重んじる。「信用は15年」というようになる。これに親の愛という愛情が加わって、軽やかに努力ができるようになっていく。

長谷川はこの50歳前後で大きく転換する。社名を「長谷川仏壇店」に変え、法人化する。同時に、生きることを喜ぶ、ふくよかな「仏様」のような人間になっていく。ガンの告知を受けても動揺はなく淡々と仕事をして、75歳で亡くなった。

亡くなった後、金庫から借用書がたくさん出てきた。経済的に苦境にあった近所のお寺へ、自分のポケットマネーで援助していたことがわかった。そのためもあり、近隣のお寺は、はせがわのファンになった。

「人は誰でもいずれ年老いて亡くなって仏様になりますよ」「世間並びに仏教の恩を忘れずに、大恩に応えなければいけませんね」「日常人として正しい行いと親・祖先・神仏・社会に報恩・感謝の念を心がけましょう」「お仏壇は感謝の礼を尽くすものであります。親の恩は海よりも深く山よりも高しと申されます」。

「はせがわのこころ」というこの会社の経営の考え方がある。「私たちは目に見えない大きな力に生み出され、生かされるいのちに感謝し受けつぎつないできた美しい日本の精神性を大切にし、心、いのち、人との間の豊かな関係を深めてまいります」。

息子は実によく長谷川才蔵の生涯を説明していると感心した。父の才蔵は家をつくらず、死ぬまで店の二階に住んでいたのである。

長谷川才蔵は、仕事を頑張る、成果が上がる、休む、というサイクルを大事にしていた、「お蔭様で」という世界は、現世の自分だけの世界ではなく、先祖の世界に抱かれた大きな世界なのだ。

職人型であった長谷川才蔵は商品の品質にこだわる人だった。その商品に適切な価格をつけて、安売りは絶対にしなかった。品質と価格に自信があったのだ。

営業を担当していた長谷川の妻は、戦争で出征していた夫にかわってお寺を守っていた奥さんたちに、一升瓶を提げてうかがい、三味線を弾いて踊って慰問をしていた、という。

先年私の母が亡くなった時、ゆめタウン中津店の中にある「お仏壇のはせがわ」で位牌をつくるときにお世話になった。業務知識と接客態度に感心したことを思いだした。仏壇ではなく、お仏壇と「お」をつけてるのもいい。こういう創業者のもとで発展しているのだなと、納得する。